極める古文4 上位~難関大突破編

侍るめりと て侍れ。 まづ、歌に秀逸の 万機をもぬけて物に滞 のいづれの体とも見えずし を皆さしはさめるやうにおぼえ びて心直く衣冠正しき人を見る心地 侍るべし。 常に人の秀逸の体と心得て侍 無文なる歌のさはさはとよみ 心遅れ、た けあるのみ申し習ひて侍る。それは不覚の事 にて候ふ。かからむ歌を秀逸とだに申すべく は、歌毎にもよみぬべくぞ侍る。詠吟事極ま り案性澄みわたれる中より、今とかくもてあ つかふ風情にてはなくて、にはかに傍らより やすやすとしてよみ出だしたる中に、いかに も秀逸は侍るべ 、その歌は、まづ心深く、 長高く、巧みに、 詞の外まで余れ やうにて、 姿気高く、詞なべて続け難きがしか やすら

れば秀逸と申し上げてよいのならば、詠む歌ごと 秀逸な歌 詠むことができるにちがいありません。和歌に詠む事柄をぎり ぎりまで工夫し、その精神の働きがすっかり澄み切っている心 の中から、当面あれこれ工夫している構想ではなくて、突然別 にすらすらと詠み出した歌の中に、いかにも秀逸な和歌はある

で、これは 昔を 仰ぎ見ますと、 ぐれた先人たちの今 まず、和歌において秀 みぶりは、歌のあらゆる素材 い和歌で、 この十種の体の中のど しかもその十体の特性をすべて含んで 情が漂い、心が真っすぐで、衣冠を正しく ような心地がする歌であるにちがいありません 中の人がふつう秀逸の体と理解しています和歌は、 がない和歌で、さっぱりと詠んで、歌境の深さが十分 声調 のびやかなだけの和歌を申すのが習わしのようです。 ういう

認識は

心得違いのことです。そのような歌でありさえす

ところが

世の

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