みんゴロ古文出典

みんなのゴロゴ・ 古文出典 オンラインフリー版

■オンラインフリー版の公開について

ゴロゴネットでは、ゴロゴシリーズをはじめとして、 これまでに、のべ 400 万人以上にご利用いただいてき た学習参考書を「オンラインフリー学参」としてネッ ト上で無料公開しています。 また下記ページの「■利用規約」に合意いただき、 フォームにて利用をご報告いただくことで、YouTube 配信での使用も可能です。

オンライン授業に、YouTube 配信に、自由にお使いく ださい。

https://gorogo.net/free565/

ゴロゴネット編集長 沖田 寛己

20 過去 年以上にわたる大学入試問題を徹底調査した結果、古文出典で最も出題さ れる 作品が決定しました。この本に掲載されている 作品で、大学入試に出題さ れる古文出典が %以上カバーできます。 まず第一部の「ベスト 」でカバー率 %、次の第二部「ベスト ~ 」で %、そし て第三部「ベスト ~ 」で %超をカバーしています。 『古文出典ゴロゴ』5大特長 70 95 10 40 11 40 80 41 70 95 70

70 ベスト までの作品を読んでおけば、入試本番で %以上がこの中の作品から出 ることになります。そこで本書では特にベスト までの作品については、詳細解説・ チャート式文学史・グラフ化された過去問分析・イラストを交えた図表を掲載し、 入試出題箇所を中心に、作品世界をより深く、よりわかりやすく紹介していきます。 特長1 大学入試古文出典のベスト をランキング掲載! 特長2 出題頻度ベスト 作品を徹底解説! 40 80 40 40

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この『古文出典ゴロゴ』にはデジタルコンテンツが付属しています。スマホでアク セスすれば、電子ブックで本書がチェックできるうえに、学習に役立つコンテンツ も提供していく予定です。ぜひそれらを有効活用して、日々の学習のクオリティを 高めていきましょう。使用法など詳細は、巻末の袋とじページをご覧ください。 特長5 参考書がスマホでも読める! 電子ブック付き

「 本書のもう一つの特長といえるのが、 古文と口語訳の対照」ページです。それ ぞれの作品に掲載されている古文の文章は主要な大学入試で実際に出題された箇所 です。それぞれに出題大学名を掲載しておいたので、まずは口語訳をチェックシー トで隠して、本番のつもりで緊張感をもって読んでください。 特長4 実際の入試出題箇所をしっかり分析!

10 10 最頻出であるベスト の作品については、入試によく出る箇所をできるだけわか りやすくあらすじにしてまとめました。入試で全く同じ箇所が出る可能性も高いの で、受験の「虎の巻」にあたるものといえます。 特長3 出題頻度ベスト 作品は頻出箇所のあらすじ掲載!

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26 作品に関連する重要文学 史が一目でわかるチャー ト図。 ② チャート式文学史 本書の使用法 清少納言の書いた随筆『枕草子』は、紫式部の『源氏物 語』とほぼ同時代の平安中期に成立した作品。 『 源氏物語 』 が 「 あはれ 」 の文学 と言われるのに対して、 『 枕草子 』 は 「 を かし 」 の文学 といわれる。約 段からなる文章は、内容的 には以下の三つに分けられる。 「 類 るい 聚 じゅう 的 てき 章段 」 は別名「も のづくし」「ものはづけ」ともいい、 「あてなるもの」「山は」 などで始まっており、全体の約半数を占める。清少納言が 身辺のものを自分の感性で批評した、最も『枕草子』的な 章段群である。それに対して、 「 日記的 ( 回想的 ) 章段 」 は清少納言の出仕した 中宮定子 を中心とした宮廷生活を描 いたもので、長文のものが多く読みにくい。さらに、 主語 を省略 する古文独特の文体も手伝って、受験生が読解する のに苦労する章段である。そのため、頻出する段に関して は、人物関係をおさえておくことが大切。ちなみに内容は 圧倒的に中宮定子を賛美するものと、自画自賛的ものが 多い。 「 随想的章段 」 は、以上のいずれにも属さないス ケッチ風の章段で、特に自然を題材とするものが多い。 紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 枕 まくらのそうし 草子 源 げんじものがたり 氏物語 清 きよはらもとすけのむすめ 原元輔女 中 ちゅうぐうていし 宮定子に仕える 「 をかし 」の文学 三大随筆の一つ 「 あはれ 」の文学 世界最古の長編物語 清 せいしょうなごん 少納言 紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 日 にっ 記 き 中 ちゅうぐうしょうし 宮彰子に仕える 平安中期 随筆 枕 まくらの 草 そう 子 し 清 せい 少 しょう 納 な 言 ごん 出題率 300 1 2 3 清少納言VS.紫式部 5.2 % 第第 3 位 大学入試の古文出題順 位・出題率・作者・時代・ ジャンルを整理。 総論では作品解説と入試 ポイントを説明。

⑤ 入試頻出古文

ダイジェスト

③ 入試データ分析 & 学習ターゲット

① 柱 & 総論

大学入試の過去問分析 データを円グラフ化。そ れに基づき学習ターゲッ トをまとめています。

1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

1位「宮にはじめてまゐりたる」は、 雪の中を大納言伊周が突然参上した ことに中宮定子が驚く場面。その様 子を隅で見ていた清少納言に伊周が 話しかける。 2位の「里にまかでたるに」は、里に 下がっている清少納言の秘密の居場 所を知っている則光に対して、清少 納言は人にばらさないように暗号を 送ってごまかすように示唆する。し かし、則光にはその意味が理解でき ず清少納言が嫌味な和歌を送るが、 和歌が嫌いな則光は返歌もしない。

『枕草子』出題順位

184段 宮にはじめてまゐりたる  6.5%

84段 里にまかでたるに 6.5%

99段 五月の御精進のほど 5.2%

93段 無名といふ 琵琶の御琴を 3.9% 41段 鳥は 5.2%

その他 72.7%

藤原氏 人物関係図

道綱の母 『 蜻蛉日記 』

兼家

時姫

道綱

○ 勝

負 ○

VS

『 大鏡 』 『 栄花物語 』

27 道隆 道長 中宮彰子 中宮定子 一条帝 清少納言 『 枕草 子 』 をかし

関白

の主人公

枕草 子 の世 界

道長に左遷 させられる 隆家伊周

中納言内大臣

和泉式部 『 和泉式部日記 』

赤染衛門 『 栄花物語 』

紫式部 『 源氏物語 』 『 紫式部日記 』

あはれ

④ 図表解説

作中の人物関係や古典常 識・和歌などをわかりや すく図表化。

4

⑤ 入試頻出古文

1 第 位 ~ 第 位 10 「 」 失った幼い玉鬘は乳母に連れられて筑紫に下っていった。筑 紫で育っ玉鬘ではあったが教養ある美しい女性へと成長 し、田舎貴族の強引な求婚から逃げるために苦しい上京の旅 をていた。 ★「見ゆべくも構へず」の「 べく 」は下に打消「ず」を伴っ て可能。 構へず は几帳などを立てた部屋の様子につい て述べたものである。 『源氏物語』はストーリー の把握が最も重要。 全 帖の内容をしっかり つかんでね。 走を出すのが実良い。人に物をあげるのも、何のきっ かけもなくた自然あげるのが本当の厚意というもの だ。その品物を惜しむふりをしたり、相手に欲しいと言 わせようとしたり、勝負に負けたのにかこつけてあげる のは見苦しい。 54 掲載古文の読解上の ポイントを解説。 ⑦ 読解ポイント 読解ポイント た夕顔は六条御息所の生霊に襲われて急死。夕顔に仕えてい た右近は秘密を守るために光源氏に仕えるこになり、母 は取り返せないのだ。一生のうちで何が一番大事なこ かを決めて、その一つを一生懸命にやるべきだ。あれも これもと執着していては、結局一事も成就することはで きないのだ。

22 「玉鬘」の巻の一場面。玉鬘は光源氏が若い頃に恋した夕顔 の忘れ形見。父親は頭の中将。光源氏と秘密デートをしてい 人はこれを面白いと言っていたが私もそう思う。 わざとらしく趣があるよりも、自然で平凡なのが良い のだ。客にご馳走する際も、うまいタイミングで出すの も良いが、ただ何ということもなく、偶然のようにご馳 ながら、ついつい怠けて過ごし、目前のことばかりに気 を取られて月日が過ぎてしまい、結局何も成し遂げずに 年老いてしまう。一つの道の熟達者もなることもでき ず、思ったように出世もしない。しかし後悔しても年齢

夕 わしい人がいないなら私にください』と言ったなら、も っと立派だっただろうに」と入道が言ったそうだ。ある は説経を習う時間がないまま年をとってしまった。 世の中にはこうしたことがよくある。若いうちは、立 身出世し芸能も学問も身につけようと将来の計画を立て

⑥ 古文と口語訳 と人々は思った。その話をあるが北山の太政入道話 したところ、「それは少し嫌味だな。『鯉を切るのにふさ 磨 酒などを勧められたときに、法師で芸がないのも施主が つまらないだろうと思い、早歌を習った。この二つがど んどん上達していくのがうれしくて励んだが、その息子

10 習った。導師として招かれるときに、馬に上手に乗れず に落ちたら情けないと思ったからだ。次に、仏事の後で ることにしていますから、その鯉をいただきましょう」 と言って料理したのは、その場にふさわしく興趣がある

1 位 3 須 1 位 2 位 ある人が自分の息子を法師にしようと、「学問をして 因果応報の道理を知り、説経などをして生計を立てなさ い」と息子に言った。息子は教えに従い、まず馬乗りを 園 その の 別 べっ 当 とう 入 にゅう 道 どう は、 類 たぐい まれな料理人である。ある人の 邸で立派な 鯉 こい が出たので、人々は彼の包丁さばきを見た いと思ったが、軽々しく頼むことをためらっていた。別 当入道は気の利いた人で、「修行のために百日間鯉を切 一八八段 「或者、子を法師になして」 二三一段 「園の別当入道は」 代語訳を掲載。 口語訳は赤チェック シートで隠せます。 顔

ベスト までの作品中、 入試に頻出する箇所の現 ダイジェスト

2 位 作品の難易度・入試出題傾向をチェック!

易   難 次の文章は、今は亡き夕顔の女君の遺児、玉鬘のゆくえを知ろうとして、夕顔の女房であった右近が大和国泊瀬の観音に 祈願した時に、その右近が泊瀬の宿坊で玉鬘の一行と泊まり合わせた場面である。 『源氏物語』 東京大学 入試 出題箇所を チェック !

DATA FILE 御すみかまでありし者なりけりと見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、 いと ゆかしけれ ど、見ゆ べ ※ く も 構へ ず。 思ひわび て、「この女に問はむ。 兵 ひゃう 藤 とう 太 だ といひし人も、 これにこそあらめ。姫君のおはするにや」と思ひ寄るに、いと 心もとなく て、この中隔てなる 三条を呼ばすれど、 食 くひ 物 もの に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎しとおぼゆるも、 うちつけなり や。 全大学で出題されるキ ングオブ古文。上位大 学ほど頻出箇所を避け て出題する傾向。 例 ならひにければ、かやすく 構へ たりけれど、 かちより 歩みたへがたくて、 寄り臥したるに、この 豊 ぶん 後 ごの 介 すけ 、隣の 軟 ぜじゃう 障 のもと寄り来て、参り物なるべし、 折 を 敷 しき 手づから 取りて、「これは 御 お 前 まへ に参らせたまへ。 御 み 台 だい などうちあはで、 いと かたはらいたし や」と言ふを聞くに、わが 列 なみ の人にはあらじと思ひて、 物のはさまよりのぞけば、この男の顔見し心地す。誰とは え おぼえ ず 。 いと若かりしほどを見しに、ふとり黒みて やつれ たれば、多くの年隔てたる目には、 ふとしも見分かぬなりけ。「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を見れば、 また見し人なり。故御方に、下人なれど、久しく仕うまつり 馴 な れて、かの隠れたまへりし お屋敷にまでお供していた者だよとわかって、たいそう驚き夢のような気がする。主人と思われる人を、 たいそう 見てみたい が、見ることが  できる 部屋の作り ではない。 思い悩ん で、「この女に尋ねよう。昔、兵藤太といった人も、 き とこの男のことなのだろう。姫君が らっしゃるだろうか」と考えると、たいそう 気がかり で、この中隔ての所にいる 三条を呼ばせるが、三条は食べ物に夢中になっていて、すぐに来ないのを、とても腹立たしいと思うのも、それは 軽率である よ。 右近は いつも このような参詣には慣れていたので、軽く 準備し ていたけれども、 歩いて 来たので苦しくて、 物に寄りかかって臥せっていると、この豊後介が、隣の幕の所に寄って来て、召し上がる物でもあるのだろう、 四 角 い 盆 を 自 分 の 手 で 取 っ て、「 こ れ を あ の 方 に 差 し 上 げ て く だ さ い。お 膳 な ど が 間 に 合 わ な い で、 たいそう 心苦しい ことでございます」と言うのを聞いて、そのお方は自分程度の人ではないだろうと思って、 物の隙間からのぞくと、この男の顔を見たことがあるような気がする。誰とは思い出す ことができない。 たいそう若かった頃を見たのだが、今は太って色も黒くなり 粗末な身なりをし ているので、長い年月を隔てて見ると、 すぐには見分けがつかないのであった。「三条、こちらにお呼びだ」と、豊後介が呼び寄せる女を見ると、 これ た見たことのある人である。亡き夕顔様に、下働きではあるが、長年お仕えし続けて、あの身を隠していらっしゃった

16

17

⑧ DATA FILE

作品の難易度・ 入試出題傾向を記載。

5

目 次

1 2 3 4 5 ■ 第二部 入試出典ランキング 第 位 ~ 第 位 6 7 8 9 10 10 20 26 32 38 11 位 源氏物語 位 徒然草 位 枕草子 位 宇治拾遺物語 …… ……………… 位 伊勢物語 ………………

10 ■ 第一部 入試出典ランキング 第1位 ~ 第 位

11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22

位 讃岐典侍日記

位 落窪物語 位 和泉式部日記 ………………

位 土佐日記 位 紫式部日記

位 井原西鶴 位 古本説話集

位 蜻蛉日記

位 発心集 位 堤中納言物語 ………………

位 上田秋成

位 松尾芭蕉

位 十訓抄 位 今昔物語集

位 古今著聞集

……… ………………

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…… …………………

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……

78 82 86 90 94 98 102 106 110 114 118 122

23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34

位 閑居友 位 阿仏尼 位 建礼門院右京大夫集 ……… 位 今鏡

位 俊頼髄脳

位 栄花物語

位 無名抄

位 方丈記 ………

40 位 竹取物語 ………… …… ……………………… ………………………… 位 無名草子 位 沙石集 位 増鏡 …

位 大和物語

位 更級日記

位 平家物語

位 大鏡 位 本居宣長

…… …………… ………………………

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… ………

… ……

126 130 134 138 142 146 150 154 158 162 166 170

64 70

44 52 58

6

35 36 37 位 讃岐典侍日記 ■ 第三部 入試出ランキング 第 位 ~ 第 位 174 178 182 位 落窪物語 位 和泉式部日記 ……………… 位 撰集抄 38 39 40 位 住吉物語 位 とはずがたり ……………… ……………………… …………………… ……………………

単語索引

41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 ………………………………………………… 200 202 204 206 208 210 212 214 216 218 220 222 224 226 228 位 万葉集 位 松平定信 位 宇津保物語 ……… ………………… 位 小林一茶 位 賀茂真淵 ……… ………… …… ………………… …… …………… ……………………… ……… ……… ……… …… 位 今物語 位 平中物語 位 横井也有 位 建部綾足 位 古今和歌集 位 伊曾保物語 位 向井去来 位 太平記 位 新井白石

41 70 位 御伽草子 位 唐物語

…… ……………… ………………………

位 古来風体抄

位 香川景樹 位 源家長日記 …… …………… ………

位 東関紀行

位 松永貞徳 位 松浦宮物語

位 平治物語 位 尾崎雅嘉 位 成尋阿闍梨母集 …… ……………

位 与謝蕪村 位 世阿弥 位 夜(半)の寝覚 ……… ………………

位 狭衣物語 位 とりかへばや物語 ……………… …………

260

………………

……… …………………

……………… ………………

……

230 232 234 236 238 240 242 244 246 248 250 252 254 256 258

186 190 194

7

出典索引

世阿弥 撰集抄

60 位 39 位

238 190

順 位

ページ数

阿仏尼 新井白石 和泉式部日記 伊勢物語 伊曾保物語 井原西鶴 今鏡 今物語 上田秋成 宇治拾遺物語 宇津保物語 栄花物語 大鏡

166 218 178 38 212 110 162 202 224 150 44 244 174 200 254 106 228 230 158 10 170 210 78 226 114 258 86 94 32

33位 50位 36位 5位 47位 19位 32位 42位 15位 4位 53位 29位 6位 63位 35位 41位 68 位 18 位 55 位 56 位 31 位 1 位 34 位 46 位 11 位 54 位 20 位 70 位 13 位 57 位 37 位 9 位 12 位 25 位 64 位 40 位

太平記 竹取物語 建部綾足 堤中納言物語 徒然草

49 位 23 位 45 位 17 位 2 位 67 位 21 位 30 位 38 位 58 位 8 位 62 位 43 位 27 位 16 位 3 位 26 位 14 位 52 位 65 位 66 位 51 位 69 位 48 位 28 位 24 位 22 位 7 位 10 位 44 位 59 位 61 位

216 126 208 102 20 252 118 154 186 234 58 242 204 142 98 222 248 250 220 256 214 146 130 122 52 70 206 236 240 26 138 90

東関紀行 土佐日記 俊頼髄脳 とはずがたり とりかへばや物語

尾崎雅嘉 落窪物語 御伽草子

平家物語 平治物語 平中物語

方丈記 発心集

香川景樹 蜻蛉日記 賀茂真淵

枕草子 増鏡

唐物語 閑居友 源氏物語 建礼門院右京大夫集

松尾芭蕉 松平定信 松永貞徳 松浦宮物語 万葉集 源家長日記 向井去来 無名抄 無名草子 紫式部日記 本居宣長

古今和歌集 古今著聞集 小林一茶 古本説話集 古来風体抄 今昔物語集

狭衣物語 讃岐典侍日記 更級日記 十訓抄 沙石集 成尋阿闍梨母集 住吉物語

232 182

64 82

大和物語 横井也有 与謝蕪村 夜(半)の寝覚

134 246 194

8

40 出題カバー率 40 % 入試出典ランキング 第1位~第10位 第一部 第一部 %

9

54 全 帖の長編物語『源氏物語』は 平安中期に紫式部によ って書かれた 。大学入試の出典で不動の一位。 藤原道長の 娘 、 中宮彰子に女房として仕えた紫式部 はそれまでの物語 の系譜である「歌物語」と「伝奇(作り)物語」とを統合し、壮 大な長編物語を創作した。江戸時代の国学者 本 もと 居 おり 宣 のり 長 なが は『源 氏物語』の本質を「 もののあはれ 」にあるといった。入試で 源 げん 氏 じ 物 もの 語 がたり 第 1 位

40 出題される箇所としては、光源氏の出生から恋多き青春時 代、義理の母藤壺の宮との不義密通、須磨・明石への退居 と明石の君との出会い、そして都へ帰還後の栄進と 歳に なってからの女三の宮の降嫁などがあげられる。また、後 半の 帖では光源氏の死後、薫君と匂の宮とが宇治の姫君 たちの争奪合戦を繰り広げる、それを「 宇 う 治 じ 十 じゅう 帖 じょう 」と呼ぶ。 上位大学ほど過去に出題された有名箇所避けてくる傾向 があり、受験生としては全 帖全てのストーリー展開と人 54

10 物関係を把握しておく必要がある。また、古文の王道とし て、単語・文法・敬語・古典常識なども網羅された作品な ので、基本に忠実な勉強が求められる。

出題率 6.6 %

源氏物語への道

紫 むらさき 式 しき 部 ぶ

『 紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 日 にっ 記 き 』 和 いずみ 泉式 しき 部 ぶ 中宮彰子の  『和泉式部日記』

他の女房

10C 末 10C 後 10C 前

伝奇物語 歌物語

落 おちくぼ 窪 平 へいちゅう 中

竹 たけとり 取 伊 い 勢 せ

宇 う 津 つ 保 ほ 大 やまと 和

1000 頃

源 げん 氏 じ 物 ものがたり 語

紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 作 →中 ちゅう 宮 ぐう 彰 しょう 子 し に仕える

赤 あかぞめ 染衛 え 門 もん 『栄花物語』

平安中期 物

10C 中 10C 中 10C 中

10

1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

1位 「 須磨 」 と4位 「 明石 」 は連続性 がある。「 須磨 」 では、光源氏の敵方 である右大臣の娘六の君(朧月夜)との 密会が発覚し、光源氏が自ら須磨に退 居し生活する。その後明石に移り、明 石の君と出会い、後の明石の中宮が生 まれるのが 「 明石 」。 2 位 「 夕顔 」 は光源氏が 17 歳の時に 出会った薄幸の女性夕顔との恋愛談。 夕顔は六条御息所の生霊の最初の犠牲 者となる。 3位 「 桐壺 」 では身分の低い桐壺の更 衣が帝の寵愛を受けたために、弘徽殿 の女御一派からいじめられ、光源氏が 3歳の時に亡くなる。

『源氏物語』出題順位

須磨 7.2%

夕顔 6.8%

桐壺 6.1%

明石 5.5%

その他 47.2%

葵 5.3%

薄雲 4.9%

若紫 4.4%

少女 4.4%

若菜 4.4%

橋姫 3.8%

光源氏は 朱 す 雀 ざく 帝 てい の 尚 ないしのかみ 侍 である 朧 おぼろ 月 づき 夜 よ との密会が政敵の右大 臣方にバレてしまい、官位剝奪、流罪の処分が下されようと していた。光源氏は最悪の事態を避けるため、自ら須磨に退 居する。出発前に光源氏は、多くの人との別れを惜しみ、特 に 紫 むらさき の 上 うえ の立場を心配して自分がいない間の財産の管理権を 紫の上にゆだねた。 須磨での生活は寂しいもので、都にいる紫の上や 藤 ふじ 壺 つぼ たち からの手紙だけが心の慰めになっていた。義兄 頭 とう の 中 ちゅう 将 じょう が須 磨を見舞った時、光源氏は泣いて喜ぶ。暴風雨が続いたある 晩、夢に亡き父 桐 きり 壺 つぼ 院 いん が現れ、須磨を去るように告げる。翌朝、 同じく夢のお告げを受けた 明 あかし 石 の 入 にゅう 道 どう が迎えに来て、光源氏 は明石に移る。明石の入道は光源氏を厚くもてなし、自分の 娘 明 あかし 石 の 君 きみ との結婚を勧める。光源氏は愛する紫の上を思い

ためらうものの、ついに明石の君と結ばれて幸せに暮らす。 一方都では、桐壺院が亡くなって以来、宮中に災いが続いて いた。朱雀帝院の遺言に従わなかったこを後悔し、母 弘 こ 徽 き 殿 でん の 大 おお 后 きさき の反対を押し切り光源氏召還を命じた。光源氏は 後ろ髪引かれる思いで身重明石の君を残して都に戻る。 須 磨 1 位

11

顔 れが『源氏物語』の主人公、光源氏である。 弘 徽 殿の女御にも第一皇子がいたが、帝の愛情は光源 氏の一身に注がれた。そのため桐壺の更衣に対する弘 徽 殿の女御のいじめはますますひどくなり、ついに桐壺の 更衣は心労で光源氏が3歳の時死んでしまう。 桐 きり 壺 つぼ 帝 てい 八月十五日夜、光源氏は夕顔の家泊り、翌朝、夕顔 を近くの廃院に連れ出す。ところがそ夜、寝床に光源 氏の愛人の一人である六条御息所の 生 いき 霊 りょう が現れ、夕顔に

かつての恋人だということがわかる。しかし光源氏は 夕 ゆう 顔 がお のどこか頼りなげな雰囲気に溺れ、夕顔ほうも光源 氏の優雅な振る舞いにしだいに惹かれていく。

夕 どいいじめを受けて そのため心労で病がちにな り、実家に帰ることも多かった。しかし帝の寵愛は増す ばかりで、やがて玉のように美し皇子が生まれた。こ らせてあり、和歌が書かれている。光源氏はその風流心 が気に入り、この家の女性のもとに素性を隠して通うよ うになる。女性の素性を調べさせたところ、頭の中将の

2 位 う女性がいた。更衣は父を亡くしており、有力な後見人 もなく、帝の寵愛を得ようとしている女御や更衣たち、 特に右大臣の娘である 弘 こ 徽 き 殿 でん の 女 にょう 御 ご 一派から妬まれ、ひ 磨 かせたところ、童女が現れて扇を渡される。惟光はその 扇に夕顔の花をのせて光源氏に届けた。扇には香がくゆ

とりついて殺してしまった。夕顔の遺骸はひそかに葬ら れ、光源氏はショックのあまり寝込んでしまう。光源氏 はせめて夕顔の遺児( 玉 たま 鬘 かずら )を引き取りたいと思うが、 夕顔の死を隠していたので、それもかなわなかった。 の落胆は激しく、政務も忘て更衣形見の品を眺めて は自分たちの悲劇を中国の玄宗皇帝と楊貴妃にぞらえ て涙した。桐壺帝は光源氏に後見人がいないことを配慮 して 東 とう 宮 ぐう にはせず、貴族にして「源氏」の姓を与えた。 ここから光源氏物語始まる。

1 位 3 17 須 1 2 位 歳の光源氏は、亡き 東 とう 宮 ぐう の妃だった 六 ろく 条 じょうの 御 み 息 やすん 所 どころ のもとへひそかに通っていた。ある夏の夕方、光源氏は 五条にある乳母の見舞いに訪れた光源氏は隣家に咲く 夕顔の花に目が止まり、従者の 惟 これ 光 みつ にその花を取りに行  『源氏物語』の冒頭の巻。いつの帝の治世だったか、 女御・更衣がたくさん仕えている中に、それほど高貴な 身分ではないが帝の一番のお気に入り、 桐 きり 壺 つぼ の 更 こう 衣 い とい 夕 顔 桐 壺 2 3

12

3 位 3 位

1 第 位 ~ 第 位 10

源氏物語の人物関係図 ①

桐壺院

深い愛 弘 徽 殿 の 女御 朱雀帝

藤壺 の 中宮 光源氏永遠の理想

桐 右大臣

桐壺の更衣の代わりで入内

義理の息子光源 氏の求愛を出家 することでかわす

光源氏3歳の時死亡 不義密通の子

桐壺 の 更衣 冷泉帝

イジメ

右大臣家

左大臣

人 末摘花 空蟬

死亡 六条御息所 朧 月 夜 秋好中宮 前東宮

光 源 氏

頭 の 中将 光源氏の義兄であ り、生涯のライバル

お互い素性を隠して逢う

左大臣家

最初の 正妻

葵 の 上

年上で高貴な女性

政略結婚

かれ死亡

所の生霊にとりつ

夕 霧 出産後、六条御息

夕 顔

死亡

六条御息所の物の怪に 襲 われた 女性 たち

夕顔 葵の上 紫の上  女三宮 亡 亡

生霊

紫 の 上 最愛の女性

嫉妬の炎が 生霊になる

10歳の時に引き取 られ、14歳で結婚

死亡

死霊

デート中に 六条御息所 の生霊に とりつかれ 死亡

次々 と 女性を 襲う

藤壺の姪

1 源氏年齢 主要な事項 桐壺の更衣、光源氏出産 桐壺の更衣、周囲の嫉妬による心労から 死去 ~ 高麗人の観相により臣籍に降下、源氏姓 を賜る。藤壺が桐壺帝に入内 光源氏元服。左大臣の娘葵の上と結婚 夏 「雨夜の品定め」 。空蟬と契る 秋 夕顔が六条御息所の物の怪に襲われて急 死 春 北山で紫の上を垣間見る 夏 藤壺と契る 藤壺出産(後の冷泉帝)。中宮となる 春 桜の宴。その夜朧月夜と契る 夏 葵祭の日、葵の上と六条御息所との車争 い 秋 葵の上が、夕霧出産後、六条御息所の生 霊に襲われて死去 冬 紫の上と新枕を交わす 秋 六条御息所と娘の斎宮、伊勢に下る 夏 朧月夜との密会が右大臣方に露見 春 須磨へ退居 秋 明石の君と結ばれる 秋 光源氏に召喚の宣旨が下り帰京、権大納 言に昇進 春 明石の姫君誕生 秋 六条御息所死去 3 7 11 12 17 18 19 20 22 23 25 26 27 28 29

13

源氏物語の人物関係図 ②

出世争いの ライバル 雨夜の品定めの恋人

六条御息所 秋好中宮

もと都の人

明石の君 明 石の 入道

義兄

夕顔

光源氏に バレて、いじめ られて死亡 柏木 頭の中将 ( 内大臣) 鬚 黒の 大将

光 源 氏

右大臣派の圧力による 須磨・明石への流謫中 に結婚

死亡

20 玉鬘 女 三の 宮 朱雀院

初めは 無理やり 子沢山

下り 年後に上 京しモテモテに

薫君 母の死後、九州に

立身出世 しなさい

明石の中宮

「玉鬘十帖」とよばれる かぐや姫ストーリー

娘をお願い します

娘を たのむ

六条 院の 女性 たち 女三の宮の 登場にショック 出家したい

紫の上

養女として 立派に育てる

都へ戻り中に

伊勢の斎宮を経て

光源氏40歳 女三の宮14歳

光源氏の留守中 に密会

危篤

花散里

夕霧を育てる

幼なじみ

出家

不義密通の子

31 源氏年齢 主要な事項 春 六条御息所の娘入内(梅壺の女御) 冬 明石の姫君、二条院に入り紫の上の養女 となる

32 33 35 冬 明石の君、六条院に入居 玉鬘、筑紫から上京し、六条院に引き取 られる

48 51 52 秋 紫の上死去 光源氏、出家の決意を固める

37 40 41 47 春 女三の宮、光源氏に降嫁 春 柏木が女三の宮を垣間見る 春 紫の上危篤、六条御息所の死霊現る 39

36

夏 冷泉帝、出生の秘密を知り煩悶 秋 春秋優劣論で梅壺女御、秋を好む 夏 夕霧と雲居の雁の恋、内大臣に裂かれる

春 玉鬘の裳着、実父内大臣と再会 夏 明石の姫君の入内 秋 朱雀院、出家を前に娘女三の宮を光源氏 に託す 冬 鬚黒が玉鬘を手に入れる

夏 玉鬘への懸想文相次ぐ 秋 野分の日、夕霧が紫の上を見て、美しさ に魅せられる

夏 柏木、女三の宮と密通 春 女三の宮出産(薫君)と出家

14

1 第 位 ~ 第 位 10

源氏物語の人物関係図 ③

桐壺帝

頭の中将

宇治の美人 三姉妹 次女 異母妹 長女 都の政略争いに敗 れ 、 宇 治で 勤行生活 浮  舟 八の宮

密会 女 三の 宮 柏木 光源氏 実は柏木の子 出生の秘密に悩む 独身のまま 病死 若くして出家 ぼくは誰 の子 ? フラれる 大  君 薫  君

するな。

娘たちよ、 軽率な結婚は

光源氏

明石の中宮

都の生活は 不安…

中の君

匂の宮

母は明石の中宮

祖父は光源氏、父は帝、

薫君の協力に よって結婚

ネクラ

ネアカ

大君の 身代わりとして 愛する

情熱的な 恋愛

薫君と匂の宮 の求愛に悩む

自殺未遂、 そして出家

20 薫君年齢 主要な事項 薫君、宇治の八の宮を訪れ、八の宮の姫 君たちを垣間見る

22 春 匂の宮、宇治を訪問 秋 八の宮死去 秋 薫君、大君に求婚するが拒まれる 23 24

28

27

26 夏 薫君、宇治で浮舟を垣間見る 秋 浮舟、中の君を頼って二条院へ

冬 薫君、出生の秘密を知る

浮舟出家 春 薫君、浮舟の生存を知る 夏 薫君、浮舟の生存を確かめる 薫君、小君を派遣するが浮舟は対面を拒 否

薫君、浮舟を宇治に移す 春 匂の宮、宇治を訪れ浮舟と契る 浮舟、匂の宮と薫君との三角関係で悩 み、死を決意

秋 浮舟、横川の僧都に助けられる

匂の宮、中のと契る 冬 大君死去 匂の宮、中の君を二条院に迎える

15

易   難 入試 出題箇所を チェック ! 次の文章は、今は亡き夕顔の女君の遺児、玉鬘のゆくえを知ろうとして、夕顔の女房であった右近が大和国泊瀬の観音に 祈願した時に、その右近が泊瀬の宿坊で玉鬘の一行と泊まり合わせた場面である。 全大学で出題されるキ ングオブ古文。上位大 学ほど頻出箇所を避け て出題する傾向。 例 ならひにければ、かやすく 構へ たりけれど、 かちより 歩みたへがたくて、 寄り臥したるに、この 豊 ぶん 後 ごの 介 すけ 、隣の 軟 ぜじゃう 障 のもと寄り来て、参り物なるべし、 折 を 敷 しき 手づから 取りて、「これは 御 お 前 まへ に参らせたまへ。 御 み 台 だい などうちあはで、 いと かたはらいたし や」と言ふを聞くに、わが 列 なみ の人にはあらじと思ひて、 物のはさまよりのぞけば、この男の顔見し心地す。誰とは え おぼえ ず 。 いと若かりしほどを見しに、ふとり黒みて やつれ たれば、多くの年隔てたる目には、 ふとしも見分かぬなりけり。「三条、ここに召す」と、呼び寄する女を見れば、 また見し人なり。故御方に、下人なれど、久しく仕うまつり 馴 な れて、かの隠れたまへりし 『源氏物語』 東京大学 右近は いつも このような参詣には慣れていたので、軽く 準備し ていたけれども、 歩いて 来たので苦しくて、 物に寄りかかって臥せっていると、この豊後介が、隣の幕の所に寄って来て、召し上がる物でもあるのだろう、 四 角 い 盆 を 自 分 の 手 で 取 っ て、「 こ れ を あ の 方 に 差 し 上 げ て く だ さ い。お 膳 な ど が 間 に 合 わ な い で、 たいそう 心苦しい ことでございます」と言うのを聞いて、そのお方は自分程度の人ではないだろうと思って、 物の隙間からのぞくと、この男の顔を見たことがあるような気がする。誰とは思い出す ことができない。 たいそう若かった頃を見たのだが、今は太って色も黒くなり 粗末な身なりをし ているので、長い年月を隔てて見ると、 すぐには見分けがつかないのであった。「三条、こちらにお呼びだ」と、豊後介が呼び寄せる女を見ると、 これ た見たことのある人である。亡き夕顔様に、下働きではあるが、長年お仕えし続けて、あの身を隠していらっしゃった DATA FI LE

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1 第 位 ~ 第 位 10

「 」 失った幼い玉鬘は乳母に連れられて筑紫に下っていった。筑 紫で育っ玉鬘ではあったが教養ある美しい女性へと成長 し、田舎貴族の強引な求婚から逃げるために苦しい上京の旅 をていた。 ★「見ゆべくも構へず」の「 べく 」は下に打消「ず」を伴っ て可能。 構へず は几帳などを立てた部屋の様子につい て述べたものである。 『源氏物語』はストーリー の把握が最も重要。 全 帖の内容をしっかり つかんでね。 54 た夕顔は六条御息所生霊に襲われて急死。夕顔に仕えてい た右近は秘密を守るために光源氏に仕える になり、母を 読解ポイント 「玉鬘」の巻の一場面。玉鬘は光源氏が若い頃に恋した夕顔 の忘れ形見。父親は頭の中将。光源氏と秘密デートをしてい

御すみかまでありし者なりけりと見なして、いみじく夢のやうなり。主とおぼしき人は、 いと ゆかしけれ ど、見ゆ べ ※ く も 構へ ず。 思ひわび て、「この女に問はむ。 兵 ひゃう 藤 とう 太 だ といひし人も、 これにこそあらめ。姫君のおはするにや」と思ひ寄るに、いと 心もとなく て、この中隔てなる 三条を呼ばすれど、 食 くひ 物 もの に心入れて、とみにも来ぬ、いと憎しとおぼゆるも、 うちつけなり や。 お屋敷にまでお供していた者だよとわかって、たいそう驚き夢のような気がする。主人と思われる人を、 たいそう 見てみたい が、見ることが できる 部屋の作り ではない。 思い悩ん で、「この女に尋ねよう。昔、兵藤太といった人も、 き とこの男のことなのだろう。姫君がいらっしゃるだろうか」と考えると、たいそう 気がかり で、この中隔ての所にいる 三条を呼ばせるが、三条は食べ物に夢中になっていて、すぐに来ないのを、とても腹立たしいと思うのも、それは 軽率である よ。

17

18 13 15 光源氏は葵の上の死後、服喪の期間を過ごしていた。 深き秋のあれまさりゆく風の音身にしみけるかな、と ならは ぬ御ひとし寝に、明かしかね た ※ まへ る朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に濃き 青 あを 鈍 にび の紙なる文つけて、さし置きて 往にける。 いまめかしう も、とて見たまへば、 御 み 息 やす 所 どころ の御 手 なり。 「聞こえぬほどは思し知るらむや。 人の世を あはれときくも 露けきに おくるる袖を 思ひこそやれ ただ今の空に思ひ た ※ まへ あまりてなむ」あり。常よりも優にも書いたまへるかな、とさすがに置きがたう 見たまふ ものから 、 つれな の御とぶらひやと 心うし 。さりとて、かき絶え音なうきこえざらむも いとほしく 、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。過ぎにし人は、とてもかくても、 さるべき にこそはものしたまひけめ、何にさることをさださだと けざやかに 見聞きけむと悔しきは、 『源氏物語』攻略の鍵は なんといっても人物関係 の把握。P ~ の人 物関係図を参照のこと。 『源氏物語』 立命館大学 晩秋の情趣が深まっていく風の音は身にしみるものよ、と 慣れ ない 一人寝をなさって、眠ることもできずもてあまし なさっ た 朝ぼらけの、一面に霧が渡っているところに、咲きかけた菊の枝に、濃い青鈍色の紙に書いた手紙を結びつけて使者がそっと置いて 帰っていった。「 当世風だなぁ 」と思って源氏がその手紙をご覧になると、御息所の御 筆跡 である。「消息を申し上げなかった私の気持ちはご推察なさっているでしょうか。 ○人の世を無常と聞くにつけても涙がちになるのですが、まして葵の上に先立たれなさったあなたのお悲しみのほどは、十分お察し申し上げます。 だ今この空の風情を見て、気持ちを抑えきれなくなり まし て」と書いてある。「いつにもまして優雅に書きなさったものだなぁ」と、さすがに手紙を下に置きがたく ご覧になる ものの 、 しらじらしい 六条御息所のご弔問であるよと 嫌な気がする 。そうかといって、全くお便りを差し上げないのも 気の毒で 、御息所の御名を汚してしまうにちがいないと、源氏はあれこれお迷いになる。お亡くなりになった葵の上は、いずれにせよ、 そうなるはず の 運命でいらっしゃったのだろう。どうしてああしたことをまざまざと あざやかに 見たり聞いたりしたのであろうかと、くやしく思われるのは、 易   難 DATA FI LE 入試 出題箇所を チェック !

1 第 位 ~ 第 位 10

読解ポイント 「葵」の巻の一場面。光源氏の正妻葵の上は、賀茂祭(葵祭)の 見物に出かけた際に、光源氏の愛人の六条御息所と車争いを して六条御息所から怨みをかっていた。葵の上は、夕霧を出 産後、六条御息所の生霊襲われて亡くなった。その後の六 条御息所と光源氏との手紙のやり取り場面である。 ★「 たまふ 」には二種類ある。一つは四段動詞で尊敬。もう一

わが御心ながらなほ え 思しなほす まじき なめりかし。 斎 さい 宮 ぐう の御 浄 きよ まはりもわづらはしくやなど、久しう ご自分のお心ながらやはり、御息所に対する厭わしい気持ちをお変えになることは でるはずがない ようであるよ。斎宮の御潔斎にもありはしないかなどと、長らく 思い ためらい なさったけれど、 わざわざ 御息所がくださったお便りに返事をしないのは 薄情だ と思って、紫でねずみ色がかった紙に、源氏は「 この上もなく ご無沙汰の日数が経ちましたが、いつも心に掛けており ます ものの、お便りを 遠慮していた 間のことは、それならばご理解くださっているのだろうと存じまして。 ○この世に生き残っている者も、死んだ者も、ともに同じはかない露のようなもので、はかない世に執着するのは むなしいことです。 思ひ わづらひ たまへど、 わざと ある御返りなくは 情けなく やとて、紫の 鈍 にば める紙に、「 こよなう ほど経はべりにけるを、思ひ た ※ まへ 怠らずながら、 つつましき ほどは、さらば思し知るらむとてなむ。 とまる身も 消えしも同じ 露の世に 心おくらむ ほどぞ はかなき ○さること―御息所の生霊が葵の上にとりついたこと

つは下二段動詞で謙譲語。今回の文章ではどちらも出て いるので、しっかり違いを識別して欲しい。謙譲語のほ うは補助動詞の用法で、会話文中で用いられ、「~ます」 と丁寧語のように訳すのもポイント。 尊敬の「たまふ」は四段。 謙譲の「たまふ」は下二段。 「たまへ」の識別が勝負の ポイント。

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第 2 位 兼好法師 ( 吉 よし 田 だ 兼 けん 好 こう ・ 卜 うら 部 べ 兼 かね 好 よし )の書いた随筆『徒然草』 は鎌倉と室町の中間期である騒乱の 南北朝時代の十四世紀 前半に成立 した作品。兼好法師の人生観を反映した内容の ものが多く、『枕草子』が清少納言の宮中日記的な「をかし」

10 るが、全体的に読みやすく面白いうえに、現代でも通じる 人生訓もあり、基礎的な古文力をつける意味でも通読する ことをオススメする。『徒然草』入試出題ベスト は以下の 段。 位 段 「或者、子を法師になし」、 位 段 「園の 別当入道は」、 位 段 「世に語り伝ふる事」、 位 段「荒 れたる宿の、人目なきに」、 位 段「花は盛りに」、 位 段「折節の移り変はるこそ」、 位 段「家居の、つきづ きしく」、 位 段「一道に携はる人」、 位 段「五月五日、 賀茂の競べ馬を」、 位 段「達人の、人を見る眼は」。 1 188 2 231 3 73 4 104 5 137 6 19 7 10 8 167 9 41 10 194

240 という感性あふれる随筆であったのに対して、『徒然草』 は出家した兼好法師の人生哲学・思想的な内容になってい る。鴨長明の随筆『 方丈記 』や軍記物語『 平家物語 』と同様、 底流には「 無常観 」が流れている。『徒然草』は約 段からな

出題率 6.0 % 随筆 徒 つれ 然 づれ 草 ぐさ 兼 けん 好 こう 法 ほう 師 し

南北朝時代のまとめ

和歌・連歌 随筆   軍記物語  歴史物語 古今集 枕草子 保元物語 栄花物語

平安

平治物語

大鏡 今鏡 水鏡

鎌倉末期 (南北朝)

新古今集

方丈記

平家物語

鎌倉 南北朝

菟玖波集 筑波問答

徒然草

太平記

増鏡

20

1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

古典の三大随筆は大学入試頻出で、 文学史の問題もよく見られる。 1位『徒然草』は作者が兼好法師(吉田 兼好)、時代が南北朝時代(鎌倉時代 末期)であることがポイント。同時 代の作品として軍記物語『太平記』、 歴史物語『増鏡』が問われる。 2 位『枕草子』は平安時代の女房文学 の代表作品の一つ。藤原道隆の娘、 中宮定子に仕えた清少納言の日記的 随筆。 3 位『方丈記』は鎌倉時代初期の鴨長 明の作品。よく『徒然草』より後の作 品だと勘違いしている人がいるので 注意。

三大随筆 出題順位

『徒然草』

勝利 !

方丈記 10.0%

徒然草 50.6%

枕草子 39.4%

古 典 三 大 随 筆

徒然草 成立順 ③

鎌倉時代初期 鴨長明 方丈記 成立順 ②

清少納言 枕草子 成立順 ①

南北朝時代 兼好法師

平安時代中期

3 0 0 一条帝の中宮定子(藤原道隆の娘)に仕え た作者の日記的随筆。約 段から成る。 宮廷生活を華やかに描いた作品で 、根底に は「 をかし 」の精神がある。冒頭部 分「 春は

あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、 少しあかりて、紫だちたる雲の細くなび きたる」は特に有名。平安中期に栄えた仮 名文学の代表的な作品。 作者鴨長明は下鴨神社の神官の次男として 生まれるが 、神官にはなれず出世コースか ら外れる。出家し鴨長明は天変地異や飢 饉 、福原遷都などに伴う世間の悲惨さを描 き 、世の 無常 を詠嘆する。後半閑居生活 への安住にさえも疑問を抱き 、反省する心 境を述べている。 文章は和漢混交文。 本名は卜部兼好とい 、占いで朝廷に仕え る名家に生まれる 。 『 徒然草 』は鎌倉幕府が 滅亡した後成立。作品 は『 方丈記 』と同様 に「 無常観 」が根底にあるが 、 『 方丈記』の ような悲壮感はなく 、ユーモアがある。内 容は社会・人生の多岐わたり 、隠者の鋭 い観察眼が楽しめる文章。 文章は和漢混交文。

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は取り返せないのだ。一生のうちで何が一番大事なこと かを決めて、その一つを一生懸命にやるべきだ。あれも これもと執着していては、結局一事も成就することはで きないのだ。 かけもなくた自然あげるのが本当の厚意というも だ。その品物を惜しむふりをしたり、相手に欲しいと言 わせようとしたり、勝負に負けたのにかこつけてあげる のは見苦しい。

ながら、ついつい怠けて過ごし、目前のことばかりに気 を取られて月日が過ぎてしまい、結局何も成し遂げずに 人はこれを面白いと言っていたが私もそう思う。 わざとらしく趣があるよりも、自然で平凡なのが良い のだ。客にご馳走する際も、うまいタイミングで出すの も良いが、ただ何ということもなく、偶然のようにご馳 走を出すのが実良い。人に物をあげるのも、何のきっ 年老いてしまう。一つの道の熟達者もなることもでき ず、思ったように出世もしない。しかし後悔しても年齢

は説経を習う時間がないまま年をとってしまった。 世の中にはこうしたことがよくある。若いうちは、立 身出世し芸能も学問も身につけようと将来の計画を立て わしい人がいないなら私にください』と言ったなら、も っと立派だっただろうに」と入道が言ったそうだ。ある

顔 ることにしていますから、その鯉をいただきましょう」 と言って料理したのは、その場にふさわしく興趣がある 酒などを勧められたときに、法師で芸がないのも施主が つまらないだろうと思い、早歌を習った。この二つがど んどん上達していくのがうれしくて励んだが、そ息子 と人々は思った。その話をあるが北山の太政入道話 したところ、「それは少し嫌味だな。『鯉を切るのにふさ

1 位 3 2 位 須 夕 一八八段 「或者、子を法師になして」 二三一段 「園の別当入道は」 磨 1 位 2 位 ある人が自分の息子を法師にしようと、「学問をして 因果応報の道理を知り、説経などをして生計を立てなさ い」と息子に言った。息子は教えに従い、まず馬乗りを 園 その の 別 べっ 当 とう 入 にゅう 道 どう は、 類 たぐい まれな料理人である。ある人の 邸で立派な 鯉 こい が出たので、人々は彼の包丁さばきを見た いと思ったが、軽々しく頼むことをためらっていた。別 当入道は気の利いた人で、「修行のために百日間鯉を切 習った。導師として招かれるときに、馬に上手に乗れず に落ちたら情けないと思ったからだ。次に、仏事の後で

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桐 てしまうとそのまま決定してしまう。本当のことではな いと思いながら他人の言った通りに得意そうに話すのは

辻褄を合わせて話す噓は、みんなだまされてしまうので 恐ろしいことだ。みんなが面白る噓を否定しも仕方 がないからと黙って聞いていれば、証人にまでされて、 いよいよ定まってしまうだろう。

壺 その人の噓ではないが、いかにももっともらしく、とこ ろどころを曖昧にして知らないふりをして、それでいて

● ● 噓はいつもあるもので珍しくないものだと心得ておけ ば間違いはない。身分も高く教養のある人は奇怪なこと は話さないものだ。しかし神仏の伝奇は、信じてはいけ 『枕草子』 明)と並んで古典の三大随筆の一つ。 助動詞「る・らる」が下に打消をともなわ ず単独で可能の意味になる場合がある。 ● 徒然草 入試ポイント ● ● ●

大体は真実のように対応して、でも全て信じることをし ないで、また、全て疑って馬鹿にしてもいけないのである。

ないというものではない。だが世間噓を信じるのは馬 鹿らしし、だからといって否定しても仕方 ので、

3 位 3 位 世の中に語り伝えられていることは、本当のことをた だ話すのは面白くないからだろうか、多くは噓ばかりだ。 本当のことよりも大げさに脚色したうえ、さらに年月が 経過して場所も遠く離れ、語り手や書き手が作り話をし 七三段 「世に語り伝ふる事」

1 第 位 ~ 第 位 10

(鴨長

1331 作品の根底にあるのは中世の仏教的 「無常観」。 (清少納言)、『方丈記』

成立は鎌倉末期の南北朝時代( 年頃)。

同時代の作品は軍記物語の『太平記』、 歴史物語の『増鏡』。

作者は兼好法師 ( 吉田兼好・卜部兼好)。

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易   難 最大の対策。 世に語り伝ふる事、 まこと は あいなき にや、多くは皆 虚 そら 言 ごと なり。 あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境もへだたりぬれば、 言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、 や ※ がて また定まり ぬ ※ 。道々の 物の上手の いみじき 事など、 かたくななる 人 の ※ 、その道知ら ぬ ※ は、 そぞろに 神のごとくに 言へども、道知れる人は、さらに信も起さず。 音に聞く と、見る時とは、何事も変るものなり。 かつ あらはるるをもかへりみず、口にまかせて言ひ散らすは、 や ※ がて 浮きたることと 聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひがら人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて 言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬ よし して、 さりながらつまづま合はせて語る虚言は、恐ろしき事なり。わがため面目あるやうに 名古屋大学 世間で語り伝えていることは、 事実のまま では 面白くない のであろうか、多くは皆 うその話 である。 実際にあるよりも大げさに人は話を作って言うものだが、まして、年月がたち、場所も遠く離れてしまうと、 言いたい通り 話を作って語り、文章にも書きとめてしまうと、 そのまま 事実として決まってしまう。さまざまな 諸芸の名人の 素晴らしい ことなどを、 無教養な 人で、その芸道をよく知 ない人は、 むやみと 、神のように 言うが、その芸道をわかっている人は、まったく信用しない。 噂に聞く のと実際に見る時とでは、何事も違っているものである。 話をしている 一方から 嘘だと露見するのも構わず、言いたいように言い放つのは、 すぐに 、根拠のないことと わかる。また、自分でも事実とは違うと思いながらも、他人が言った通りに、鼻の辺りをぴくつかせて得意そうに 言 う の は、そ の 人 の 嘘 で は な い。も っ と も ら し く 所 々 を ち ょ っ と ぼ か し、よ く 知 ら な い ふ り を し て、 そ う で は あ る が、辻 褄 を 合 わ せ て 話 す 嘘 は、恐 ろ し い こ と で あ る。自 分 の た め に 名 誉 と る よ う に ※ DATA FI LE 入試 出題箇所を チェック ! 『徒然草』 難易度はやや易しめ。 頻出段を読んで口語訳 できる力付けるのが

24

読解ポイント ★文中に二度出てくる「 の二つの意味があって、文脈判断が大切。ここでは両方 の意味で使われており、状態の維持なら「そのまま」、時 間の連続なら「すぐに」と覚えておこう。

1 10 第 位 ~ 第 位

言はれぬる虚言は、人 いたく あらがは ず 。皆人の興ずる虚言は、ひとり「さもなかりしものを」 と言はんも 詮 せん なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、 いとど 定まりぬべし。 とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある珍しからぬ事のままに心得たらん、 よろづたがふべからず。下ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は あやしき事を語らず。 やがて 」は「そのまま」と「すぐに」 言われた嘘は、人は それほど反対しない 。みんなが面白がる嘘は、自分ひとりが「そうでもなかったのになぁ」 と言うのも無意味なので、黙って聞いているうちに、証人にまでされてしまい、 ますます 事実と決まってしまうに違いない。 とにかく、嘘の多い世の中である。嘘というものをいつもある珍しくないもののように心得ておけば、 全 て 間 違 い な い だ ろ う。身 分 の 低 い 人 の 話 は、聞 い て 驚 く こ と ば か り で あ る。身 分 の 高 い 人 は、 奇怪な とは話さない 。

★ 格助詞「 の 」は同格の用法が大切。「~で・~であって」 と訳す。また「 ぬ 」には打消「ず」の連体形と完了「ぬ」 の終止形とがあり、取り違えると意味が逆になるので注 意。

『徒然草』は内容がとっても

文を読んでみてください。

基本事項が多いのでぜひ全

面白いですよ。単語・文法も

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300 第 3 位 清少納言の書いた随筆『枕草子』は、紫式部の『源氏物 語』とほぼ同時代の平安中期に成立した作品。 『 源氏物語 』 が 「 あはれ 」 の文学 と言われるのに対して、 『 枕草子 』 は 「 を かし 」 の文学 といわれる。約 段からなる文章は、内容的 には以下の三つに分けられる。 「 類 るい 聚 じゅう 的 てき 章段 」 は別名「も のづくし」「ものはづけ」ともいい、 「あてなるもの」「山は」

1 などで始まっており、全体の約半数を占める。清少納言が 身辺のものを自分の感性で批評した、最も『枕草子』的な 章段群である。それに対して、 「 日記的 ( 回想的 ) 章段 」 は清少納言の出仕した 中宮定子 を中心とした宮廷生活を描 いたもので、長文のものが多く読みにくい。さらに、 主語 を省略 する古文独特の文体も手伝って、受験生が読解する

2 のに苦労する章段である。そのため、頻出する段に関して は、人物関係をおさえておくことが大切。ちなみに内容は 圧倒的に中宮定子を賛美するものと、自画自賛的ものが 多い。 「 随想的章段 」 は、以上のいずれにも属さないス ケッチ風の章段で、特に自然を題材とするものが多い。 3

出題率 平安中期 随筆 枕 まくらの 草 そう 子 し 清 せい 少 しょう 納 な 言 ごん 5.2 %

清少納言 VS. 紫式部

紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 中 ちゅうぐうしょうし 宮彰子に仕える

清 せいしょうなごん 少納言

中 ちゅうぐうていし 宮定子に仕える

清 きよはらもとすけのむすめ 原元輔女

紫 むらさき 式 しき 部 ぶ 日 にっ 記 き

源 げんじものがたり 氏物語 「 あはれ 」の文学 世界最古の長編物語

枕 まくらのそうし 草子

「 をかし 」の文学 三大随筆の一つ

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1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

1 位「宮にはじめてまゐりたる」は、 雪の中を大納言伊周が突然参上した ことに中宮定子が驚く場面。その様 子を隅で見ていた清少納言に伊周が 話しかける。 2 位の「里にまかでたるに」は、里に 下がっている清少納言の秘密の居場 所を知っている則光に対して、清少 納言は人にばらさないように暗号を 送ってごまかすように示唆する。し かし、則光にはその意味が理解でき ず清少納言が嫌味な和歌を送るが、 和歌が嫌いな則光は返歌もしない。

『枕草子』出題順位

184段 宮にはじめてまゐりたる  6.5%

84段 里にまかでたるに 6.5%

99段 五月の御精進のほど 5.2%

93段 無名といふ 琵琶の御琴を 3.9% 41段 鳥は 5.2%

その他 72.7%

藤原氏 人物関係図

道綱の母 『 蜻蛉日記 』

兼家

時姫

道綱

○ 勝

負 ○

VS

『 大鏡 』 『 栄花物語 』

27 道隆 道長 中宮彰子 中宮定子 一条帝 清少納言 『 枕草 子 』 をかし

関白

の主人公

枕草 子 の世 界

道長に左遷 させられる 隆家伊周

中納言内大臣

和泉式部 『 和泉式部日記 』

赤染衛門 『 栄花物語 』

紫式部 『 源氏物語 』 『 紫式部日記 』

あはれ

て、気がかりだったので参上いしました」とっしゃい ます。定子様が「雪が積もて『道もなし』と思いましたの に、どうしてまたいらっしゃったのですか」と質問なさい ますと伊周様は笑って、「道もないのに参上すれば、中 宮様はさぞ感心するだろうと思いまして」とお答えなさい ました。定子様の美さや、伊周様のお召しになってい る 直 のう 衣 し や 指 さし 貫 ぬき の色の美しさに、こちらも夢心地です。伊 周様が他の女房と楽しく会話を交わしなさる様子を見て、 私は女房たちの態度には驚き、あきれました。

その後、伊周様が私に近寄りなさり、差し向かいで座 ることになりましたが、私は緊張のあまり冷や汗をかき ながら、身の程知らずの宮仕えであると後悔し、伊周様 が早くお帰り らないかと、ただひたすら祈っており ました。 歌を贈りましたが、則光は和歌が苦手で、読まずに立ち 去りました。則光は「私に和歌を詠むときは、絶交すると きです」と口癖のように言っていたので、私は則光に「仲が 良かったけど、今日のことで私たちの仲も崩壊しましたね」 という和歌を贈り、その後結局疎遠なってしまいました。

1 位 3 2 位 須 夕 一八四段 「宮にはじめてまゐりたる」 八四段 「里にまかでたるに」 磨 1 位 2 位 中 ちゅう 宮 ぐう 定 てい 子 し 様のお父上藤原 道 みち 隆 たか 様が急にいらっしゃるこ とになり、女房たちは大慌てで片付けを始めました。私 も奥に下がり、 几 き 帳 ちょう の縫い目から中の様子を伺いました。 ところが、いらっしゃったのは定子様のお兄様の藤原 伊 これ 周 ちか 様でした。伊周様は「昨日今日と 物 もの 忌 い みでしたが、雪が降っ て来て、私の居場所を教えろと迫ったそうです。則光は知 らん振りするのがおかしくて笑ってしまいそうでしたが、 近くを通り過ぎた 左 さ 中 ちゅう 将 じょう 経 つね 房 ふさ が素知らぬ顔をしていた ので、則光も苦し紛れに食卓の上にあった 若 わかめ 布 をムシャム シャほおばってや過ごしたとのこと。これを聞い私は 顔 私が里邸に退出しているとき、里邸に 左 さ 衛 え 門 もんの 尉 じょう 則 のり 光 みつ が訪ねて来ました。則光のもとに 宰 さい 相 しょう の 中 ちゅう 将 じょう 斉 ただ 信 のぶ がやっ

絶対に私の居場所を教えるなと念を押して強く口止めを しました。数日後、則光から「また斉信様に居場所を聞か れ、もうだめです」という内容の手紙がきました。私は返

事を書かずに若布だけを則光に送り、絶対私の居場所を 教えるなということをほのめかしました。しかし則光は 意味が通じなかったよう、とぼけたことを言って た。あまりの間抜けさ私は腹が立ち、嫌味たっぷりの和

作者清少納言は中宮定子の女房。父は 『後撰和歌集』の撰者である清原元輔。

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3 位 3 位 五 さ 月 つき の御 み 精 そう 進 じ の頃は、中宮定子様が 御 み 曹 ぞう 司 し (役人や女官 の部屋)に来て、 塗 ぬり 籠 ごめ の前の二間を特別に仏間にするなど、 いつもと様子が違います。五月雨で毎日つまらないので、 ホトトギスの鳴き声を探訪に行こうと女房たちに提案す ると、私も私もと参加する人が多く、みんなで出かけるこ とにしました。牛 ぎっ 車 しゃ の手配をして出発すると、留守番の女 九九段 「五月の御精進のほど」 作者清少納言は中宮定子の女房。父は 『後撰和歌集』の撰者である清原元輔。 成立は平安時代中期( 年頃)で、「女 房文学」の全盛期。 『枕草子』は知的な興趣を表す「をかし」 の文学。 ● ● 壺

ことを残念思いました。ホストの明順は、若い下女や近 所の農家の娘 を連れてきて、稲こきの様子などを披露 してくれまし。私たちは初めて見る 臼 うす などを珍しがって いるうちに、本来の目的であるホトトギの声を聞いて和 歌を詠むことを忘れてついつい楽しんでしまいました。

桐 房たちはうらやましがって、もう一台牛車を出して出かけ ようとしますが定子様にとめられ、しぶしぶ見送りました。 私たちは途中で競射をしている人たちを見かけてしば らく見物し、目的地の 明 あき 順 のぶ の 朝 あ 臣 そん の家に到着すると、早 速牛車から降りて家に上がりました。明順の家は田舎風 に簡素に造られ、馬の絵を描いた障子や、 網 あ 代 じろ 張りの屏 風など古風で、風流があります。うるさいぐらい一斉に鳴 きたてるホトトギスの声を聞き、定子様に聞かせられない

1 第 位 ~ 第 位 10

P.29 『枕草子』の主題は中宮定子の賛美。 枕草子 入試ポイント ● ●

● ●

1000 主語判別問題が多いので、人物関係の 把握が読解の必須条件( 参照)。 「させたまふ」など最

文中の「せたまふ」 高敬語の主語は圧倒的に「中宮定子」。

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易   難 チェック ! うらやましげなるもの、経など習ふとて、いみじうたどたどしく忘れがちに、 かへすがへす同じ所をよむに、法師はことわり、男も女も、くるくるとやすらかに よみたるこそ、あれがやうにいつの世にあらむとおぼゆれ。 心地などわづらひて 臥 ふ したるに、うち笑ひ、物など言ひ、思ふ事なげにて 歩みありく 人見る こ ※ そ 、いみじう う ※ らやましけれ 。 稲 いなり 荷 に思ひおこして 詣 まう でたるに、 中 なか の 御 み 社 やしろ のほどの、 わりなう 苦しきを 念じ のぼるに、 いささか苦しげもなく、おくれて 来 く と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて 詣づる 、 いとめでたし。二月の 午 うま の日の 暁 あかつき に、いそぎしかど、坂のなからばかり歩みしかば、 巳 み の時ばかりになりにけり。 やうやう 暑くさへなりて、まことに わびしく て、 知識の有無で得点差が 付きやすい傾向にあ る。人物関係と内容把 握がポイント。 『枕草子』 関西大学 う ら や ま し く 見 え る も の。 お 経 な ど を 習 う と い っ て、 私 が た い そ う た ど た ど し く 忘 れ が ち に、 繰 り 返 し 同 じ 所 を 読 む の に、法 師 は 上 手 で 当 然 だ が、法 師 以 外 の 男 で も 女 で も、す ら す ら と 容 易 に 読んでいる人がいるが、いつ私はあんなふうになれるだろう、と思われる。 私 が 気 分 な ど が 悪 く て 休 ん で い る と き、 笑 っ た り お し ゃ べ り し た り、 悩 み が な さ そ う に 歩き回る 人を見るのは、たいそううらやましい。 伏見稲荷大社に、一念発起して参詣したとき、私が中の御社のあたりで、 無茶苦茶 苦しいのを 我慢して 登るのだが、 少しも苦しそうなふうもなく、私より遅れて来る、と思っていた連中が、どんどん進んで行って他の人より前に 参詣するのは 、 たいそうすばらしい。二月午の日(初午祭の日)の夜明け前に、私は急いだが、坂の半分ほど歩いたところで、 巳の刻(=午前十時)くらいになってしまった。そのうえに、 しだいに 暑くなって、ほんとうに つらく て、 DATA FI LE 入試 出題箇所を

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1 10 第 位 ~ 第 位

「 など 、かからで、よき日もあらむものを、何しに詣でつらむ」とまで、 涙も落ちて休み 困 こう ずる に、四十余ばかりなる女の、 壺 つぼ 装 さう 束 ぞく などにはあらで、ただ 引きはこえたるが、「まろは七度詣でしはべるぞ。三度は詣でぬ。いま四度は ことにもあらず。まだ 未 ひつじ に下向しぬべし」と、道に会ひたる人にうち言ひて 下 くだ り行きし こ ※ そ 、 ただなる所には、目にもとまるまじきに、これが身に、ただ今なら ばや とおぼえ し ※ か 。 「 どうして 来てしまったのだ。こんな暑い日に来なくても、もっとよい日もあるだろうに、どうして私は参詣しているのだろう」とまで、 涙 も 流 れ る ほ ど 疲 れ 休 ん で い る と、 四 十 歳 過 ぎ く ら い の 女 で 旅 装 の 壺 装 束 な ど で は な く、 た だ 着物の裾をたくし上げた女が、「私は今日一日で七度詣でをしますよ。すでに三度は参詣した。あと四度など 問題ではない。まだ未の刻(=午後二時)のうちに下山できるだろう」と、途中で出くわした人にちょっと話して下って行ったときは、 この女はふつうの場で目に留まらないつまらない女だろうが、この時は私もこの女の身に今すぐなり たいなあ と思わずにはいられなかった。

読解ポイント 清少納言が通ったこの稲荷山を登山道は「お山めぐり」呼 ばれる険しい道のり。千本鳥居と呼ばれる鳥居のトンネルが 延々と続き、華やかである。小祠や塚を巡拝するこの「お山 めぐり」は約4kmの道のりである。伏見稲荷大社は商売繁 盛・五穀豊穣の神様が祭られている。 ★文中で係結びが何箇所かあるが、「 こそ→已然形 」につい

てはしっかり慣れておきたい。特に「こそ→うらやましけ れ」のように形容詞の已然形が結びになっているものや、 「こそ→しか」と過去「き」の已然形の結びのものに注意。 『枕草子』は人物関係を知っ ておくと入試で断然お得。 頻出の段にはあらかじめ目 を通し きましょう。

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出題率 4 位 5.0 % 『宇治拾遺物語』は 鎌倉前期 、 世紀前半頃に成立した説 話 文学で、 世俗説話 に分類される。宇治平等院に避暑に行 った大納言 隆 たか 国 くに が、そこで寝ころがりながらいろんな人か ら面白い話を聞いて書きとめた、と序文に書かれている。 つまり、「宇治に 遺 のこ れるを拾ふ」というのが書名の由来。平 安時代に成立した『 今昔物語集 』や、他の説話集とも重複す る話が多い。全 話あり、短編物語的な形をとっているた め入試では出題されやすく、また出題箇所も多くの話にわ たっている。文体は口語表現的で読みやすく、話題も「 こぶ とりじいさん 」、「 舌切り雀 」などの有名な民話が入ってい る。内容的に読みやすい分、つっこんだ問題が多く、国公 立二次試験などでは口語訳や説明問題が頻出する。その意 197 説話文学

13 味では、基本的な古文単語・文法をおさえた上で、丁寧な 口語訳をするよう、日ごろからの勉強の積み重ねが大切に なる。また、文学史問題も多く、左ページでまとめたように、 時代(平安か鎌倉か)、説話の中のジャンル(世俗か仏教か) という四分類を確実に覚えておかなければならない。 民間に伝えられた、 神話・伝説・昔話などの総称。 叙事的・伝奇的で庶民性に富む。 作品は多くが鎌倉時代に成立した。 内容から、 世俗説話・仏教説話に分かれる。 話文学 世俗説話 仏教説話 民衆の生活が 題材。 仏教のえを 広めるための話。 鎌倉前期 世俗説話 宇 う 治 じ 拾 しゅう 遺 い 物 もの 語 がたり 作者未詳

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1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

近年の入試では説話文学は増加傾向 にある。説話文学は平安時代の貴族 文学のあとに生まれた大衆文学であ る。その作品の多くが鎌倉時代に入っ てから作られており、一部の作品だ けが平安時代に成立している。 そこで平安時代に成立した作品をま ず全て覚え、残りは鎌倉時代に成立 した説話文学作品であると覚えると わかりやすい。 世俗説話、仏教説話の分類などが細 かく問われることもある。上位 3 位 はすべて鎌倉時代に成立した作品で、 特に『宇治拾遺物語』は内容をおさえ ておきたい作品だ。

説話文学 出題順位

閑居友 5.2%

その他 12.0%

沙石集 6.2%

宇治拾遺物語 24.1%

古本説話集 6.9%

古今著聞集 12.9%

十訓抄 12.3%

発心集 8.6%

今昔物語集 11.8%

説話の分類

※    は入試で出る順 No.

No.4

No.1

今昔物語集 古本説話集

宇治拾遺物語 古今著聞集

No.2

世 俗

十訓抄 今物語 古事談

唐物語 江談抄

平安鎌倉

No.3

三宝絵詞 日本霊異記 打聞集

No.5

漢文

発心集 沙石集

仏 教

閑居友  宝物集 撰集抄 雑談集

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こである晩、夫婦が寝いる部屋に仲間のばくち打ち 忍び込み、ミシミシと天井を踏み鳴らした。そして威圧 的な声で「天下一番の美男子よ」と呼んだ。男が自分こそ天 兼久は席を立って治部卿の家来の所にいき、「治部卿 は全く歌をご存知ないようだ。こんな未熟な人が撰集の 撰者を引き受けいるなんて、あきれたことだ。 公 きん 任 とう 卿

顔 はおもはざりけれ」とこたえた。すると治部卿は、「まあ よく詠んでいるが、『けれ・けり・ける』は必要ではない 言葉だな。それに『花こそ』という文字は、女の子の名前 としてならよさそうな言葉だ褒めてくれなかった。 る」と言ってだまして、息子その娘との結婚を取り決め た。しばらく夜だけ通っていたがいよいよ昼も一緒に住む ことになり、このままでは男の醜い顔がバレてしまう。そ

下一の美男子だと答えると、鬼に扮し仲間が「命と顔 どちらが惜しいか」と問う。男が女の親に相談したところ、 命あってのモノダネだと言うので、「では顔をお取りくだ さい」と答えた。鬼が「では顔を吸うぞ」という声に、男は わざと苦しんだふりをて転げまわった。鬼帰った後、 紙 し 燭 そく の火で男の顔を見てみると、目と鼻を一箇所により集 めたようなブ男にな いた。 舅 しゅうと は男に同情し、財産を存 分に与えて婿を大事にし、男は女と幸せに暮らしたとさ。

1 位 3 2 位 須 夕 八 巻一 磨 1 位 2 位 昔、ばくち打ちの息子がいたが、目と鼻を一箇所に集め たようなブ男だった。両親は、どうしたら人並み以上の人 生を息子に送らせられるか悩んでいた。そのころ、大金持 昔、 治 じ 部 ぶ 卿 きょう 通 みち 俊 とし 卿 きょう が『後拾遺集』をお撰びになったと き、 秦 はたの 兼 かね 久 ひさ が治部卿の家を訪ねて、自分の歌が撰ばれる か様子を伺った。治部卿にどんな歌を詠んだのか聞かれ たので、「 去 こ 年 ぞ 見しに色もかはらず咲きにけり花こそ物 巻九 - - 十 ちの娘が婿に美男子を探していると聞いて、これだとばか りに、「天下一の美男子と評判の男が婿入りを希望してい

の歌で、『春来てぞ人もとひける山里は花こそ宿のある じなりけれ』というのは、秀歌として評判になっている。 この歌でも『人もとひける』『あるじなりけれ』と『ける』 『けれ』を私と同じように連発しているのに、どうして公

任の歌は立派で私の歌は悪いというのか」と言った家 来がこのことを治部卿に話したところ、治部卿は自らの 失敗に気がつき「なるほどなるほど、そうだったな。こ のことは誰にも言うなよ」と言ったそうだとさ。

成立は鎌倉時代前期。ジャンルは説話 (世俗説話)。

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いう噓の内容の手紙を書いて娘のところに送ってもらっ た。頼まれた豊蔭は、「恋い慕っておりますが、どうして 逢坂の関は越えられないのだろう(あなたと逢えないのだ ろう)」と 和歌を姫君に送った。母君がそれを父君に

3 位 3 位 一条摂政(藤原 伊 これ 尹 ただ )というのは、東三条殿(藤原 兼 かね 家 いえ ) の兄である。ルックスはもちろん、心遣いなどもすばらし く、学才や振る舞いもすぐれていたが、色好みでたくさ んの女性と関係があった。自分でもその振る舞がちょっ と軽々しいと思ったので、名前を隠して大蔵の 丞 じょう 豊 とよ 蔭 かげ と 名乗り、身分の低い女のもとへはその名で手紙を送った。 巻三 - 一九 成立は鎌倉時代前期。ジャンルは説話 (世俗説話)。 天竺(インド) ・震旦(中国) ・本朝(日本) にわたる 話が収録されている。 『今昔物語集』との重複が約 話ある が、より庶民性・滑稽性に富む。 ● ● 桐 壺 ある時、豊蔭は極めて身分の高い人の娘のところに通 い始めた。乳母と母君を味方にして通っていたが、それ を知った父君は色好みの豊蔭を通わせている母君を責め 立てた。母君は、豊蔭は娘の所に通っていないと父君に 噓をつく一方、豊蔭に頼んで、娘と関係を持っていないと 197 説話文学は時代(平安・鎌倉)と分類 (世俗・仏教)をチェック( 参照)。

見せると、父君は豊蔭が娘のもとに通っていないと信じ て安心し、「逢坂の関を越えることはありません」と娘の

ふりをして返歌を詠んだ。豊蔭はうまく父君をだませた とほほえんだことか。『一条摂政御集』にある話だ。

1 第 位 ~ 第 位 10

● 宇治拾遺物語 入試ポイント ●

● ●

P.35 『 宇治拾遺物語』は鎌倉時代成立、『今 昔物語集』は平安時代成立。

80 会話文や口語を多く含み、会話によっ て筋が進行する話が多い。

35

36 入試 出題箇所を チェック ! 文章の難易度は高くな いが、国公立大での出 題が多く、訳出する力 が不可欠。 今は昔、人のもとに宮仕へしてあるなま 侍 さぶらひ ありけり。する事のなきままに、 清 し 水 みづ へ人まねして、 千 せん 度 ど 詣 まうで を二度したりけり。その後いくばくもなくして、主のもとにありける同じやうなる侍と 双 すぐ 六 ろく を 打ちけるが、多く負けて、渡すべき物なかりけるに、 いたく 責めければ、 思ひわび て、 「我持ちたる物なし。ただ今たくはへたる物とては、清水に二千度参りたることのみなんある。 それを渡さ ん ※ 」といひければ、かたはらにて聞く人は、 謀 はか るなりと、 をこに 思ひて笑ひけるを、 この勝ちたる侍、 「いとよきことなり。渡さば得ん」といひて、 「いな、かくては 請 う け取らじ。三日して、 この よし 申して、おのれ渡すよしの 文 ふみ 書きて渡さばこそ請け取らめ」といひければ、「よきことなり」 と契りて、そ日より精進して、三日といひける日、「さは、いざ清水へ」といひければ、この負け侍、 このしれ者にあひたると、かしく思ひて、喜びてつれて参りにけり。いふままに文書きて、 『宇治拾遺物語』 津田塾大学 今となっては昔のことだが、人の所に仕えている年若く身分の低い侍がいた。することがなかったので、清水寺へ人のまねをして、 千 度 詣 で を 二 度 し て い た。 そ の 後、 ま も な く、 主 人 の 下 に 仕 え て い た 同 じ よ う な 身 分 の 侍 と 双 六 を 打ったところが、ひどく負けて、渡すことができる物がなかったので、相手が負けたこの侍を ひどく 責めたので、 困ってしまっ て、 「 私 は 持 っ て い る 物 が な い。 い ま 貯 え て い る 物 は、 清 水 寺 へ 二 千 度 参 詣 し た こ と だ け だ。 そ れ を 渡 そ う 」と 言 っ た の で、そ ば で 聞 く 人 は、だ ま す の だ と、 ば か ば か し い こ と に 思 っ て 笑 っ た の を、 この勝った侍は、「たいへんよいことだ。渡してくれるならもらおう」と言って、「いや、このままでは受け取るまい。三日して、 この 事情 を清水の観音に申し上げて、自分に渡すという証文を書いて渡すならば受け取ろう」と言ったので、「承知した」 と約束して、勝った男はその日から精進して、三日目という日に、「それでは、さあ清水寺へ行こう」と言ったので、この負けた侍は、 こんな馬鹿者にあったことよと、おもしろく思って、喜んで一緒に参詣した。言うとおりに証文を書いて、 易   難 DATA FI LE

1 10 第 位 ~ 第 位

読解ポイント 清水寺は古くから石山寺、長谷寺と並ぶ観音霊場として有 名で、これらの寺は平安時代の作品にもたびび登場する。 「千度詣」は名前の通り千度お参りをすること。 ★ 文中で何度も出てくる「 ん 」は「む」と同じ働きをす る助動詞。打消の意味はないので注意。ちなみに「と」

御前にて師の僧呼びて、 事のよし 申させて、「二千度参りつること、それがしに双六に打ち入れつ」 と書きて取らせければ、請け取りつつ喜びて伏し拝みて、 まかり出で にけり。 その後、いくほどなくして、この負け侍、思ひかけぬ事に捕へられて 獄 ひとや に居にけり。取りたる侍は、 思ひかけぬたよりある 妻 め まうけて、いとよく徳つきて、 司 つかさ などなりてたのもしくてぞありける。 「目に見えぬものなれど、 まことの心 をいたして請け取りければ、仏あはれと おぼしめしたりける な ※ んめり 」とぞ人はいひける。 観音の御前で師の僧を呼んで、 事情 を観音に申し上げさせて、「二千度参詣したこと、双六に勝った侍に双六の賭け物として渡した」 と 書 い て 渡 し た の で 、 受 け 取 り つ つ 喜 ん で 観 音 を 伏 し 拝 ん で 退 出 し た 。 そ の 後、ま も な く、こ の 負 け た 侍 は 思 い が け な い こ と で 捕 ら え ら れ て、牢 獄 に 入 っ た。受 け 取 っ た 侍 は、 思いがけず裕福な家柄の妻と結婚して、たいへん財産を持ち、官職についてとても豊かに暮らした。 「 目 に 見 え な い 物 だ け れ ど、 真 心 を つ く し て 受 け 取 っ た の で、 仏 も 情 が 深 い こ と だ と 思 い に な っ た の で あ る ら し い 」 と 人 々 は 言 っ た 。

★「 なんめり 」は断定の助動詞「なり」の連体形「なる」+ 推定「めり」=「なるめり」が撥音便化したもの。さ らに無表記形「なめり」になる場合が多い。訳は「~であ るしい」。

の前に「む・ん」がくると、たいていの場合、意志「~ しよう」の意になる。

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出題率 5 位 3.6 % 「昔男ありけり」で始まる『伊勢物語』は 歌物語 の最初の作 品であり、 平安前期に成立 した。『伊勢物語』は、別名を『在 五中将物語』 『在中将物語』 人公が六歌仙の一人、 在 あり 原 わらの 業 なり 平 ひら であり、彼が在五位の中将 であったところから呼ばれた書名である。業平は平城天皇の 孫にあたり、本来は皇族として高い地位に上れるはずであっ たが、藤原氏による他氏排斥によって政権の圏外に置かれる。 そこで彼を色好みの男として恋愛に生きるプレイボーイ的ヒ ーローとして伝説化するこになるのだが、それは 平安貴族 の美的な倫理である 「 みやび 」 の象徴 でもあった。全編は短 編物語であり、必ず歌が詠み込まれている。全 段を通じ て業平の一代記風に配列してあるが、大部分は虚構の物語。 入試でのポイントはやりとりされる 和歌の解釈 になるので、 『伊勢物語』の中の和歌に関しては「誰が誰に対して」 「どうい

『在五が物語』ともいう。それは主

125 う意味で」歌を詠んだのかに目を通しておくことが大切。ま た内容的にも平安貴族の男女の恋愛を描いて興味深いもの なので、出題された段に限らず、全編を是非読んでおこう。

平安前期 歌物語 伊 い 勢 せ 物 もの 語 がたり

歌 物 語

作者未詳

1000 頃

10C 中 10C 中 平 へい 中 ちゅう 物 ものがたり 語 多 とうのみねしょうしょうものがたり 武峰少将物語 色好みの平 たいらのさだふみ 貞文が 主人公 大 やまと 和 物 ものがたり 語

10C 中

伊 い 勢 せ 物 ものがたり 語

源 げん 氏 じ 物 ものがたり 語

『在 ざい 五 ご が物語』 ともいう。

『在 ざい 中将物語』

在 あり 原 わらの 業 なり 平 ひら が主人公 『在 ざい 五 ご 中将物語』

六歌仙の一人、

紫式部作

(『高光日記』)

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1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

1 位の 83 段は親王とお供の馬の頭 の翁とのつながりを描いた段。和歌 の解釈がポイント。 2 位の 107 段は藤原敏行が高貴な男 に仕える女性に恋をして求婚するが、 女性は若くて歌を詠めなかったので、 女性の主人が代わりに歌を詠んだ話。 敏行が「雨が降りそうなので行くかど うか迷っています」と手紙を送ると、 主人は「愛があるなら来るはず」と返 したところ、敏行は笠も身に着けず にあわてて女のもとに駆けつける。 以下、上位 12 位までで全体の 75% を占めるので、頻出段には必ず目を 通しておこう。

『伊勢物語』出題順位

83 段 16.3%

その他 22.4%

107 段 14.3%

85段 4.1%

78段 4.1%

69段 4.1%

65段 6.1%

45段 4.1%

96段 6.1%

40段 4.1%

101段 6.1%

21段 4.1%

23段 4.1%

『伊勢物語』頻出和歌

! = 唐衣をいつも着慣らしているように 、慣れ親しんだ愛しい妻 があの京にいるので 、はるばるやってきた旅をなんとも悲し く思うのだ。 ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを からころも point

point 唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

= 咲く花の下に隠れている人が多いので 、以前にも増して立派 な藤の木陰であることよ。 兄の行平邸を訪れた在原業平が 、主客の藤原良近を前に詠ん だ歌。当時権力をふるっていた藤原氏に対する対抗意識が裏 に隠れ 。 咲く花の下に隠るる人を多み ありしにまさる藤のかげかも

! = 結局は 、どの人間も通って行く死の道だとは 、前から聞いて いたけれど 、まさかそれが自分の身の上に起こるのが 、昨日 今日にさし迫っていたとは 、思ってもみなかったことよ。 ○ 男(在原業平)の辞世の句 。 ! point

五七五七七最初の文字を読む と「かきつ は(ば) た」 と植物 の名前になる折句歌。旅途中に見たかきつばたの花を見て、 都に残してきた妻を思出している。

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した。そこは比叡山のふもとで、雪が高く降り積もって いた。親王はすることもなくて悲しげな様子だった。馬の 頭は昔話などをして、そのままお仕え申し上げたいと思っ たけれども、朝廷での仕事があるためそれもできず、「親 敏行と女性が結ばれた後のこと。敏行から「今日は雨が 降りそうなので、行くかどうか迷っています」という手紙 がきたので、例の主人がまた女性に代わって、「私への想

1 位 3 2 位 須 夕 顔 1 位 2 位 八三段 一〇七段 昔、 水 み 無 な 瀬 せ の離宮に通っていた 惟 これ 喬 たか 親王が、いつものよ うに鷹狩りにお出かけになった。お供には馬の 頭 かみ であった 翁がお仕え申し上げ、数日後、親王は京の自分の邸にお 戻りになった。馬の頭は親王をお送りした後、早く家へ帰 りたいと思っていたが、親王がお酒と褒美を与えになり 帰してくれない。馬の頭は帰りたくて、「今夜は枕として 昔、身分の高い男の家にいた女性に、藤原 敏 とし 行 ゆき が求婚 した。しかし女性はまだ年が若かったので、恋文や筆跡も しっかりしておらず、言葉遣いもわからず、まして和歌は 詠めなかったので、この女性の主人の男が手紙の下書きを して、女性に清書をさせて返送した。敏行はその手紙に 感動し、「所在無く降り続く長雨で水かさ増した川より も、あなたを想い続けて涙を流している私の涙川は、袖 ばかりが濡れ あなたに逢う方法がありせん」と返し た。それに対して女に代わって例の主人が、「涙の川浅 磨 草を引き寄せて結ぶ旅の仮寝もいたしますまい。秋の夜 のように夜長を頼みにしゆっくりすることさえできませ んので」と詠んだ。時節は春の終わりの三月の末だった。

王様が出家なさった現実をふと忘れて、今は夢を見てい るような気がしますまさか深い雪を踏み分けて親王様 にお逢いすることになろうとは思ってもみませんでした」 と泣きながら和歌を詠んで京に帰った。 いを計ることができる雨が降りつのっています(想いが強 ければ雨の中でもいらっしゃってください)」と詠んだ。そ れを読んだ敏行は笠も身に着けずにびしょびしょになって 女性のもとにかけつけたのあった。

その後親王は、意外なことに出家なさった。馬の頭は、 正月に拝謁申し上げようとして、親王のいる小野に参上 いから、袖ばかり濡れるのでしょう。体が流されくら 涙を流してくれるならあなたの思いも信じられますが」と 詠んだ。敏行はまた感心 、その手紙を大切に保存した。

内容は実在した六歌仙の一人在原業平 ( ~ )の一代記風。

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う。女は蔵に籠もったまま男の顔を見ることもできず、 「私のこの身の上を知らずにあの人が私に逢えると思っ ているのは悲しいわ」と思う。男は女の所と流された国を 行き来しながら、「無駄に行って帰ることを繰り返してい るが、逢たさにつられて出かけてしまうよ」と

壺 歌った。女は思い悩んで実家へ下がると、男はかえて 好都合だと女の実家に通った。男は次第に朝廷での出世 の道が危うくなり、仏や神に「想いを断ち切れないみっと もない心をお直しください」と祈り、陰陽師や神巫にお 祓いをしてもらったが、恋心は増すばかり。

桐 男は「あなたを想う気持ちは逢うことをこらえる気持ち に勝るのです。逢えるならどうなってもかまいません」と

た。女が泣いて過ごしていると、毎晩男流された国か らやってきて、笛を吹きならしみじみと美しい声で歌

● ● やがて帝の耳にこの話が入ってしまい、男は流罪となっ た。女のいとこの天皇の母も、を蔵に押し込めてしまっ ある。 すべての話が「昔男ありけり」ではじまり、 「となむ語られけるにや」で結ばれている。 歌物語は他に『大和物語』

3 位 3 位 六五段 昔、天皇が寵愛している召使いの女がいた。その女は 天皇の母のいとこだった。ところが殿上の間に仕えてい た在原という男とこの女が懇意な仲となってしまった。

1 第 位 ~ 第 位 10

伊勢物語入試ポイント ●

● ●

825 880 内容は実在した六歌仙の一人在原業平 ( ~ )の一代記風。 『平中物語』が

別名を『在五中将物語』『在中将物語』 『在五が物語』と言う。

文中には和歌が一首以上含まれており、入 試では和歌の解釈・修辞法が問われやすい。

師 ・ 大 伴 黒 主 ・ 文 屋 康 秀 ・ 小 野 小 町 。

六歌仙は 在 あり 原 わらの 業 なり 平 ひら ・ 僧 そう 正 じょう 遍 へん 昭 じょう ・ 喜 き 撰 せん 法 ほう の

おお

ともの

くろ ぬし

ふん やの やす ひで

まち

41

易   難 入試 出題箇所を チェック ! 各段が短編小説的に なっており必ず和歌が 詠まれる点がポイン ト。通読しておきたい。 むかし、 惟 これ 喬 たか の 親 み 王 こ と申す親王 おはしまし けり。山崎の あなた に、 水 み 無 な 瀬 せ といふ所に 宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、 右の 馬 うま の 頭 かみ なりける人を、常に 率 ゐ ておはしましけり。時世へて久しくなりにければ、 その人の名忘れにけり。狩は ねむごろに もせで、酒をのみ飲みつつ、 やまと歌 にかかれりけり。 いま狩する 交 かた 野 の の 渚 なぎさ の家、その院の桜ことに おもしろし 。その木のもとにおり ゐ て、 枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる、 世の中に たえて 桜の なかり せ ※ ば 春の心は のどけから ま ※ し となむよみたりける。また人の歌、 散ればこそ いとど桜は めでたけれ うき世 に な ※ にか 久しかる べ ※ き 『伊勢物語』 大阪大学 昔、 惟 喬 の 親 王 と 申 し 上 げ る 親 王 が い ら っ し ゃ っ た。 山 崎 の 向 こ う で、 水 無 瀬 と い う 所 に 離 宮 が あ っ た。 毎 年 桜 の 花 盛 り に は、 そ の 離 宮 に お い で に な っ た。 そ の と き 右 の 馬 の 頭 で あ っ た 人 を、い つ も 連 れ て い ら っ し ゃ っ た。年 月 が 経 っ て 長 く な っ て し ま っ た の で、 そ の 人 の 名 は 忘 れ て し ま っ た。 狩 は 熱 心 に も し な い で 酒 ば か り 飲 ん で は、 和 歌 に 取 り 掛 か っ た。 現在狩をする交野の渚 家は、その邸宅の桜が格別に 趣がある 。その桜の木の下に馬から下りて 座っ て、 枝を折って髪の飾りにさして、身分の高い人も低い人もみな歌を詠んだ。そのとき馬の頭であった人の詠んだ歌は、 ○世の中に 全く 桜が なかっ たとしたら、春の人の心はのどかだったろうに(桜があるので、風や雨の度に桜を思いやって、人の心は慌ただしいのだ)。 と詠んだのであった。また別の人の歌、 ○散るからこそ、いっそう桜は すばらしいのである 。 つらくはかないこの世の中 に、どうして長くとどまっていられようか。 DATA FI LE

42

1 第 位 ~ 第 位 10

「 」 惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で帝からも寵愛されていた が、藤原氏が権力を握っていたために皇太子になれなかっ た。 「右の馬の頭」は六歌仙の一人である在原業平のことで、 惟喬親王の義理の従兄弟である。不遇な境遇が似ているこ ともあって二人は交が深かった。 ★ 最初の和歌の せば~まし は反実仮想。「もし~だっ たら~だったろうに」と訳す。現実に反して仮にある 状態を想像し表現であるので、 の状態を訳に活 かすようにする。 ★ 二つ目の和歌の なにか~べき は反語の用法である から いや~ではない という訳を書き加えておくの がよい。 「 」 「 」 読解ポイント

とて、その木のもとは立ちてかへるに、日ぐれになりぬ。御 供 とも なる人、酒をもたせて野より 出で来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を求めゆくに、天の河といふ所にいたりぬ。 親王に馬の頭、大 御 み き 酒 まゐる 。親王ののたまひける。「交 かた  の 野 を狩りて、天の河のほとりに至る を題にて、歌よみて盃はさせ」と のたまう ければ、かの馬の頭よみて 奉 たてまつ りける。 狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり 親王、歌を返す返す 誦 ず じ たまうて、返し え し給は ず 。 と詠んで、その木の下を立って帰ると、夕暮れになった。お供の人が、部下に酒を持たせて野原を通って 現れ。この酒を飲んでしまおうというわけで、酒宴によい場所を探し求めて行くうちに、天の河という所に行き着いた。 親王に馬の頭がお酒を お勧めする 。親王がおっしゃったことには、「交野で鷹狩をして、天の河のほとりに到着する というのを題にして、歌を詠んでからその盃をさせ」と おっしゃっ たので、例の馬の頭が詠んで差し出した歌、 ○夕暮れまで狩をし、今夜は織女に宿お借りしよう。  なんと天の河原にわたしは来たのだなあ。 親王は、その歌を何度も繰り返し 朗詠 なさっていて、返歌を作ることがお できになれない 。

43

190 ちで、彼らが若い頃に見聞した話を人々に語り、時折 歳 の若侍が質問するという形式をとっている。そのため、別 名『世継が物語』あるいは世継が翁の物語』も呼ばれた。 『大鏡』の特徴の二つ目は、 藤原道長に対してやや批判的 で、 単なる歴史的な事実の羅列ではなく、人間的な視点が入っ 30

180 ていることである。赤染衛門の書いた『 栄花物語 』 が道長を 賛美することに終始していたのとは対照的 。歴史物語の最 高傑作で、後に与えた影響は大きい。文徳天皇( 年)から 後一条天皇( 年)までの 代 年を 紀伝体 で語っている。 内容は、各天皇にまつわる話や、有力貴族であった藤原氏 の面々の政治上の駆け引きなどだが特に平安史上もっと も権力を握った政治家藤原道長伝が中心になっている。 850 1025 14 176

出題率 6 位 3.5 % 『大鏡』は歴史物語として、『 栄花物語 』についで作られた。 て、「 四 し 鏡 きょう 」と呼ばれる。『大鏡』の特徴の一つ目は、書かれ ている文が 会話体 であることで、主たる話し手である 大 おお 宅 やけの 世 よ 継 つぎ は 歳、脇役に当たる 夏 なつ 山 やまの 繁 しげ 樹 き は 歳という超老人た 成立は平安後期で、後に続く『 今鏡 』 『 水鏡 』 『 増鏡 』とあわせ 平安後期 歴史物語 大 おお 鏡 かがみ 作者未詳 11C 末 11C 前 ~

歴史物語

四 鏡

14C 後 12C 後 12C 後

12C 前 大 おおかがみ 鏡 紀伝体 藤原道長の栄華が

増 ますかがみ 鏡

水 みずかがみ 鏡

今 いまかがみ 鏡

栄 えい 花 が 物 ものがたり 語 編年体 作者は赤染衛門か

紀伝体 編年体 編年体 もある

描く 中心だが批判精神

藤原道長の栄華を

南北朝時代に成 立

44 ② ③ ① ④

← 歴史的内容順

1 第 位 ~ 第 位 10

学習ターゲット

入試データ分析

1 位の藤原道長は自分の娘たちを帝 に入内させ、外戚として権力をふ るった。娘の彰子を一条天皇に入内 させた時には、先に入内していた兄 道隆の娘である中宮定子を無理やり 皇后にして二后並立とした。 2 位の藤原伊尹は道長の伯父で一条 摂政と呼ばれた。師輔の長子で、弟 に兼通、兼家がいる。安和の変で左 大臣源高明を失脚させた。 3 位の藤原時平は道長の祖父師輔の 伯父にあたる人物。ライバルの菅原 道真を大宰府に左遷するが、早死し たために摂政関白にはなれなかっ た。

『大鏡』出題順位

やはり ワシが 一位

右大臣道兼 4.8% 太政大臣兼通 4.8% 花山院 4.8% 左大臣師輔 6.0% 太政大臣実頼 7.2%

その他 9.9%

太政大臣道長 25.3%

太政大臣伊尹 10.8%

左大臣時平 9.6%

内大臣道隆 8.4%

左大臣師尹 8.4%

『大鏡』愚兄賢弟 骨肉の争い VS. 兼 通 兼 家 兄 弟

円融帝の母安子(兼通・兼家の妹)の遺筆である「関白は兄弟順になるべきで ある」に従って、力の劣る兄の兼通が関白になる。そのため二人は犬猿の仲と なり、兄兼通が危篤の時、弟兼家は兼通が亡くなったと勘違いして、見舞いに 訪れず、兼通の家の前を素通りして内裏に参上して次の関白を自分にしても らおうとする。これが兼通にバレて、兼家は関白になれず左遷されてしまう。 兼通亡き後は兼家は出世コースに復帰し、摂政・関白・太政大臣を歴任する。 VS. 父兼家の死後、長男の道隆が摂政になる。道隆は娘定子を一条帝に入内させ、 中宮にする。弟の道長は姉の詮子(一条帝の母)を味方につけて娘彰子を一条 帝に入内させる。彰子を中宮にするために、中宮定子を無理やり皇后として、 初めて二后並立を誕生させた。道隆の死後は、道長は道隆の息子伊周・隆家を 左遷し、さらに優位な立場に立った。 道 隆 道 長 兄 弟

この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば (道長)

45

大鏡の人物関係図 ①

源高明を 左遷して 摂政になる

権勢は 兄をしのぐ ほどだった

○ 兄 実頼

弟 ○ 師輔

関白は兄弟順に するべきと円融帝 に言う

VS 兼家 兼通 円融帝の 関白 一条帝の 摂政・関白 母は 『 蜻蛉日記 』の 作者 (大入道殿) (入道殿)(粟田殿) (中の関白殿) 政権争い 弟 ○ ○ 兄 頼忠 死の直前 関白を ゆずる 関白 花山院の 出家により、 七日関白。 せっかく謀略が 成功したのに 疫病で死亡

安子 村上帝

62

母に従って 兼通を 関白にする

タナボタ

精神病

道隆 道綱 道兼 道長 ・ 数字は帝代 ・(  )内は本文中の 呼び名

(憲平親王)

64 円融帝 冷泉帝 (守平親王)

懐子

63

詮子

7歳で帝に なる

66 一 条帝

65 花山院 出家

だまされて

父、兼家と共謀 して花山院を 出家させる

花山 985

円融

冷泉 967

朱雀

醍醐 901

宇多 887

陽成 876

帝 西暦

977

972

969 970

947

930 939

909

899

道長の肝試し。

頼忠(実頼二男)、関白となる。 →タナボタ関白。

兼通、没。兼通と兼家(師輔三 の 兄弟不仲は死ぬまで続いた。

伊尹(師輔一男)、摂政となる。 伊尹、没。兼通(師輔二男)は皇后安 子の遺言のおかげで関白となる。

実頼、関白。源高明、左大臣。 源高明、大宰権帥に左遷。翌年実頼、没。

平将門、藤原純友の乱。 実頼(忠平一男)、左大臣師輔(忠 平二男)、右大臣。

39 時平、 歳で没。道真の祟りと噂され る。 忠平(基経四男)、摂政となる。

2 道真、時平の陰謀で大宰権帥に左遷さ れる。 年後、大宰府で没。

主要事項 大宅世継、誕生。 基経、初の関白となる。 夏山繁樹、誕生。 時平(基経一男)、左大臣菅原道真、 右大臣。

46

1 第 位 ~ 第 位 10

大鏡の人物関係図 ②

弟 ○ 道長

○ 兄 道隆 一条帝の摂政・関白 (中 の 関白殿)

応援 顕信頼通 (宇治殿) (入道殿)

VS 政権争い 後一条帝 後朱雀帝の外戚

63 冷泉帝

詮子 超子円融帝

64

ユーモアのある人

酒豪で軽口をたたく

を勝利させる

母の頼みで道長

67 三条帝

為尊親王

敦道親王

66 一条帝 中宮彰子 道長との抗争に敗れる 主要事項 兼家、道兼(兼家三男)の謀略で花山院 が出。兼家、摂政となる。 兼家、没。道隆(兼家一男)、摂政となる。 道長(兼家五男)と伊周(道隆二男)の競射。 道隆、没。道兼、関白となるが、翌月没 →七日関白 道長に内覧の宣旨が下り、右大臣となる。 伊周は政争に破れる。 伊周、大宰権帥左遷。隆家(道隆三男)、 出雲権守に左遷。身重の定子、その屈辱 から自ら落飾。 道隆の娘、定子は一条天皇の第一皇子・ 敦康親王を出産。 道長の娘、彰子が入内 し女御となる。 彰子は中宮、定子は皇后になる。 →前代未聞の一帝二后。 年の暮れ、定子は皇女を出産後、没。 道長、大堰川逍遥。 三舟の才ある藤原公 任は和歌の舟に乗り、賞賛を受ける。 彰子、土御門邸で敦成親王(後一条帝) 出産。翌年、敦良親王(後朱雀帝)出産。 69 68 帝 西暦 一条 986 990 994 995 996 999 1000 1001 1008 隆家伊周 中宮定子 清少納言 彰子が中宮になっ 後一条帝 後朱雀帝 (帥殿 ) (中納言殿) (上東門院) 若くして 出家 【女房】 紫式部 和泉赤染衛門 【女房】 たため皇后となる 失脚

道長に よって 失脚

和泉式部 と 恋愛する

後一条 1016 1022 1025 1027

三条 1011

道長、没。

法成寺金堂、落慶供養 雲林院菩提講に世継ら集まる。 →『大鏡』冒頭 彰子、出家。

道長、賀茂行幸で暴れ馬を鎮める。 道長、摂政、翌年太政大臣となる。息子 頼通に摂政を譲る。

47

1 位 3 2 位 須 夕 顔 1 2 「道長」より 「伊尹」より 四条大納言殿(藤原 公 きん 任 とう )は何事もマルチにデキる人物 だった。大入道殿(藤原 兼 かね 家 いえ )は「どうしてこのように諸 芸にすぐれているのか、私の子供たち( 道 みち 隆 たか ・ 道 みち 兼 かね ・ 道 みち 長 なが )は公任殿の影さえ踏むことができないのが残念だ」と 言う。それを聞いた中関白 道隆)・粟田殿(道兼)は、 恥ずかしくて何も言うことができない。一方、入道殿(道 長)だけはまだ年若いが「影を踏まない代わりにその面を 踏んでやるさ!」と意気込んだ。 花 か 山 ざん 院 いん が在位中の時の話。五月下旬の闇夜で、梅雨の 藤原 朝 あさ 成 ひら 中納言と一条摂政(藤原 伊 これ 尹 ただ )がまだ若く、同 じ殿上人だった頃、朝成中納言は、身分こそ一条摂政に 及ばなかったものの、学問や声望は負けていなかった。 この二人に 蔵 くろうどのとう 人頭 になる順番が巡ってきた時の話である。 朝成中納言は伊尹に、「私には今回しかチャンスはあ りませんが、あたには将来またきっとチャンスがあ る。だから今回はあなたは立候補しないで、私に蔵人頭 の座を譲ってほしい」と頼んだ。伊尹も納得して承知し てくれた。しかしどういうわけか、いつのまにか伊尹が 蔵人頭になっていた。朝成だまされと思い、二人は 仲たがいの状態となってしまった。 磨 時期が過ぎて、とても気味悪く雨が激しく降った夜のこ とだった。花山帝が退屈して殿上の間にきて、殿上人た ちと遊んでいると、ある殿上人が怖い話をする。帝が「今

夜はなんだか気味が悪い夜だが、人気のないところに一 人で行けるか」と持ちかける。人々はとてもできないと いうが、入道殿(道長)だけが、「どこでも行きます」と啖 ある夏の暑い日のこと、朝成は伊尹邸に参上するが、 自分より身分の高い伊尹邸に勝手に上がることもでき ず、案内があるまで庭で待っていた。ところがいつまで 待っても案内が来ない。ついに夜になってしまい、結局 伊尹に会わずに帰ってきてしまった。怒りに燃えた朝成

呵をきった。花山帝は面白がって、道隆・道兼・道長に それぞれ人気のないところを指定して行ってくるように は、 一族を永久に絶やすことを誓 亡くなったの で、伊尹一族を代々にわたって呪う悪霊となってしまっ たということだ。 命じる。道隆と道兼は結局恐れをなして途中で引き返し てくるが、道長だけは平然と行って帰ってきたのった。

成立は平安時代後期。ジャンルは歴史 物語。

48

3 位 左大臣 時 とき 平 ひら は、藤原 基 もと 経 つね の長男である。 醍 だい 醐 ご 帝 てい の治世 の時に、時平は左大臣の位で年は ~ 歳。 菅 すが 原 わらの 道 みち 真 ざね は右大臣の位で ~ 歳だった。醍醐帝はこの左右の大 臣に天下の政治を執り行うべき旨の宣旨を下していた。 右大臣道真は学才が優れていて、思慮分別も格別だった ので、右大臣へ帝の寵遇は特別だった。一方、左大臣時 平は内心穏やかではなくなり、ついに右大臣道真のこと を帝に 讒 ざん 言 げん (陥れようと悪口を言うこと)した。その結果、 道真は 大 だ ざいの 宰 権 ごんの 帥 そち に任命されて、九州へ流されてしまった。 桐 「時平」より 壺 3

悲しんでいる様子だった。そこで道真は「時勢が移り変 わり改まってく様子を驚くことはない人の栄枯盛衰 も、春には花が咲き、秋には落ち葉となる。こと同じ なのです」という悲しい漢詩を作ったのだった。

57 58 は流されていく自分の身を嘆いた和歌を宇多法皇に送 り、途中で出家してしまった。播磨の国に着いて明石の 宿駅に泊まると、そこの駅長が道真の左遷をとても驚き

28 29 道真には子供がたくさんいて、娘は結婚し息子はそれ ぞれ官位などもあったが同じように各地に流され、しか し幼い子供たちだけは連れて行くことを許された。道真

1 第 位 ~ 第 位 10

● ● 大鏡 入試ポイント ● 『増鏡』と合わせて「四鏡」 『大鏡』以前に藤原道長の栄華を描いた 作品には、『栄花物語』がある。 『水鏡』 ● ● ●

『今鏡』

と呼ぶ。

全体が会話で構成されていので、敬 語法に注意する必要がある。

180 藤原道長の功績を讃えるだけではな く、批判精神もある。

190 歳の大宅世継と 歳の夏山繁樹に 歳の若侍が加わった問答体形式。

成立は平安時代後期。ジャンルは歴史 物語。

30

49

易   難 入試 出題箇所を チェック ! 頻出古文中では文章の 難易度が高い。特に敬 語と人物関係に注意。 この 粟 あは 田 た 殿の御 男 をとこ 君 きん 達 だち ぞ三人おはせしが、太郎君は 福 ふく 足 たり 君 ぎみ と申ししを、幼き人は さ ※ のみこそは と思へど、いと あさましう 、 まさなう 、あしくぞおはせし。東三条殿の御賀に、この君、 舞をせさせたてまつらむとて、習はせたまふほども、 あやにくがり すまひ たまへど、 よろづにをこづり、祈をさへし、教へきこえさするにその日になりて、いみじう したてたてまつりたまへるに、舞台の上にのぼりたまひて、ものの 音 ね 調子吹き出づるほどに、 「わざはひかな、 あれ は舞はじ」とて、 鬢 びん 頬 づら ひき乱り、御装 さう 束 ぞく はらはらとひき破 や りたまふに、 粟田殿、御色 真 ま 青 あを にならせたまひて、 あれかにもあらぬ 御けしきなり。 ありとある 人、 「 さ ※ 思ひつることよ」と見たまへど、すべきやうもなきに、御 舅 をぢ の中関白殿のおりて、 舞台に上らせたまへば、いひをこづらせたまふべきか、また憎さにえたへず、 『大鏡』 京都大学 粟田殿(道兼)のご子息たちは三人いらっしゃったが、ご長男は福足君と申し上げたが、幼い人はみなそのようなもの と思うが、この方はほんとうに あきれるほど たちが悪く やんちゃでいらっしゃった。御祖父の東三条殿(兼家)の還暦のお祝いに、この福足君に 舞 を 舞 わ せ 申 そ う と し て 習 わ せ な さ る 間 も、 だ だ を こ ね て 嫌 が り な さ っ た が、 いろいろだましすかし祈祷までしてお教え申し上げさせたのに、その当日になって粟田殿が福足君にたいそう立派に 舞の装束をつけてさしあげなさったのに、福足君は舞台の上に上りなさって、楽器の音の調子を合わせ始めると、 「嫌だ、 わたし は舞いたくない」と言って、結いあげたびんずらをひき乱し、御装束をばらばらに引き裂きなさるので、 父の粟田殿はお顔色が真っ青におなりになって、 気の抜けてぼんやりした ご様子である。その座にいた すべての 人は、 「こんなことだと思っていた」とご覧になっているが、どうしようもないときに、伯父君の中関白殿(道隆)がお席を降りて、 舞 台 に お 上 り に な る の で、「 な だ め す か し な さ る の だ ろ う か。 そ れ と も、 憎 さ が 我 慢 で き ず DATA FI LE

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