みんゴロ古文出典

出題率 0.3 % 62 位 軍記物語 作者未詳 平 へい 治 じ 物 もの 語 がたり 鎌倉初期 義 よし 朝 とも は、あひ従ひし 兵 つはもの ども、方々へ落ち行きて小勢になりて、 叡 えい 山 ざん 西 にし 坂 さか 本 もと を過ぎて、 小 を 原 はら の方へぞ 落ち行きける。 八 や 瀬 せ といふ所を過ぎんとするところに、 西 さい 塔 たふ 法師百四五十人、道を切りふさぎ、 逆 さか 茂 も 木 ぎ 引いて待ちかけたり。この所は、一方は山岸高くそばだち、一方は川流れみなぎり落ちたり。 「うしろよりは、 敵 かたき 、 さだめて 攻め来たるらん。前は山の 大 だいしゆ 衆 、支へたり。 いかがはせん 」 といふところに、 長 なが 井 ゐの 斉 さい 藤 とう 別 べつ 当 たう 実 さね 盛 もり 、防き矢射て追ひつきたりけるが、 「ここをば、実盛、通しまゐらせ候はん」とて、真先に進みて、 甲 かぶと をぬいで 臂 ひぢ にかけ、弓 脇 わき にはさみ、 膝 ひざ をかがめて、「これは、 主 しゆう は討たれ候ひぬ、 いふかひなき 下 げ 人 にん ・ 冠 くわん 者 じや ばらが、恥をかへりみず、 命を惜しみ、妻子を今一度見候はんとて国々へ逃げ下る者どもにて候ふ。たとひ 首を召され候ふとも、罪つくらせ給ひたるばかりにて、勲功の賞にあづからせ給ふほどの首は、 源義朝は、付き従っていた兵士たちが、あちこちへ逃げて行って少人数になって、比叡山の西坂本を通り過ぎて、大原の方へ 逃げて行った。八瀬という所を過ぎようとするところに、比叡山西塔の法師百四、五十人が、山やがけなどを切り崩して道をふさぎ、 逆茂木を引き巡らして、待ち構えていた。この場所は、一方は山の絶壁が高くそばだち、片方は川が流れ水がみなぎって落ちている。 「後ろからは、敵が、 きっと 攻めて来ているだろう。前は比叡山西塔の僧兵が、進路をはばんでいる。 どうしようか 、 どうしようもない 」 と言っているところへ、長井の斎藤別当実盛が、防ぎ矢(=敵の攻撃を防ぐために射る矢)を射かけながら追いついたのだが、 「ここは、私実盛が、通してさしあげましょう」と言って、真っ先に進んで、甲を脱いで肱に掛け、弓を脇に挟み、 膝 を 屈 し て、「 私 は 主 君 は 討 た れ て し ま い ま し た、 つ ま ら な い 下 人・ 従 者 ど も が、 生 き 恥 を 省 み ず、 命 を 惜 し み、 妻 子 を も う 一 度 見 よ う と 思 い ま し て、 国 々 へ 逃 げ 下 る 者 ど も で ご ざ い ま す。 た と え 首 を ご 所 望 に な り ま し て も、 殺 生 の 罪 を お 作 り に な る だ け で、 勲 功 の 賞 を い た だ き な さ る ほ ど の 首 は、

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