みんゴロ古文出典

出題率 0.3 % 633 位 1755 ~ 1827 国学者 尾 お 崎 ざき 雅 まさ 嘉 よし 江戸後期 清少納言は一条院の皇后宮に仕へし女房なり。この皇后宮は中関白道隆公の御女 定 てい 子 し と申しし 御方なり。枕草子の所々に宮のお前と書かれたるは、この皇后の御事なり。しかるに栄花物語に 清少納言三条院の女御の 淑 し 景 げい 舎 さ の御許に、宮仕へせられし 由 よし 記せり。この女御も道隆公の御女にて、 皇后定子の妹 には淑景舎御事所々に出でたれど、この御許に宮仕へせられたる 由は見えず。かの皇后定子は長保二年十二月に かくれ させ給ひ、御妹の淑景舎は長保四年八月に かくれさせ給ひて、御姉君よりは二年ばかり生き残りておはしければ、かの皇后 かくれさせ給ひし後、きやうだいの御方なれば、清少納言も参り通はれたるなるべし。この人は 女ながら学問ありて才智秀でられしが、或年の 如 きさらぎ 月 晦 つごもり 日 に風吹きて雪少し降りけるを宰相中将、 少し春ある 心地こそすれ 清少納言は一条院の皇后様にお仕えした女房である。この皇后様は中関白・藤原道隆公の御娘で定子と申し上げた 方である。『枕草子』のあちらこちらに宮の御前と書かれているのは、この皇后様のことである。しかし、『栄花物語』には 清少納言が三条院の女御淑景舎のおそばに宮仕えなさったことも記録されている。この女御も道隆公の御娘であって、 皇后定子の妹君である。『枕草子』には淑景舎の御ことがあちらこちらに登場するけれども、この方のもとに宮仕えなさったとの 記 録 は 見 え な い。あ の 皇 后 定 子 は 長 保 二 年 十 二 月 に お 亡 く な り に な り、御 妹 の 淑 景 舎 は 長 保 四 年 八 月 に お 亡 く な り な さ っ て、 姉 君 よ り は 二 年 ほ ど 長 く 生 き て い ら っ し ゃ っ た の で、 あ の 皇 后( = 定 子 ) が お亡くなりになった後で、淑景舎は姉妹のご関係なので、清少納言も宮仕えに参上なさったのであろう。この方は 女性でありながら学問ができ、才知にたけていらっしゃったのだが、ある年の旧暦の二月晦日に風が吹いて雪が少し降ったのを、宰相の中将が、 ○すこし春めいた気分がすることだ。

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